軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

防衛省昇格、朝日の社説を嗤う

 皇室を誹謗した『週刊金曜日』の行事は、国民の相当な怒りを呼んでいるようだ。私のブログに寄せられたコメントだけでも理解できる。
 誰かのコメントにあったように、皇室を貶めることは、すなわち日本国民を誹謗することであり、自分に唾することである。それが平気でできるということは、おそらく「日本人以外の血」が流れている連中であるという証明であろう。
 私は終戦翌年に小学校に入ったが、終戦を境として周辺事情が大きく変わったことを思い出す。父が、樺太から日本列島を縦断して佐世保市郊外に建設された火力発電所に勤務していたので、炭鉱とは密接な関係にあった。勿論社宅周辺には多くの「炭住街」があり、そこには朝鮮半島から来た「一旗組」や、「徴用組」が住んでいた。普段はそれなりに交際していたのだが、日本が敗戦すると彼らの態度は一変した。進駐軍におだてられた?せいか、自分たちは「敗戦国民」の日本人ではなく戦勝国の一員であるかのような態度を取り、自ら「第3国人」と名乗って威勢が良かった。
 子供らは学校では勉強はせず悪戯ばかりするので、先生から厳重な「処罰」を受けていたが、その腹いせからか、おとなしい日本人の同級生たちを帰宅途中に「待ち伏せ」して、“いじめ”をするのが常態だった。
 しかし、日本が復興するや、連中は「差別」と称して地方自治体に寄生し、揺すり集り、やりたい放題であった。勿論中にはまじめな者たちも居てこのような生活態度は自分たちの自滅を招くと仲間内で抵抗していたものもいたが、所詮暴力にはかなわなかったから、日本人の「腰が引けた対応」をいいことに、政界始め、法曹・教育界、芸能界、宗教界、マスコミなど各界に勢力を伸ばしていった。その「残債?」と思える連中の今回の所業は、おとなしい日本人の堪忍袋の緒を切ることになるだろう。おそらく、彼らの中からも行き過ぎが批判されるに違いない。

 ところで昨日は、久々に「チャンネル桜」で収録してきた。この話題で持ちきりだったが、普段はおとなしい者でさえ、相当な怒りを表していたから、今回の日比谷公会堂での行事の影響は大きいと感じた。「桜」では、報道番組で三輪氏がこれを取り上げ、言い訳があるなら「週刊金曜日」の責任者からも説明を聞こう、というオープンな態度だったが、卑怯な彼らがスタジオに来るとは思えない。
 私は「今日の自衛隊」と言う番組で毎月月初めの月曜日に「防衛漫談」をしているのだが、昨日はキャスターから朝日新聞の社説を渡され、意見を聞かれて思わず失笑した。「防衛庁の省昇格に反対する」と言うのである。なんだかよく分からない、支離滅裂な内容だったが、私が失笑したのは、最後のフレーズで、「古い上着を脱ぎ捨てるな」というところにあった。つまり、朝日の社説は「私達は防衛庁は庁のままで良い」と言い、「庁」を「古い上着」に例えているのである。朝日が考えている「古い上着」が、ブランド物の高級上着だとは思えないから、いつまでもぼろをまとっておかせたい、と言うのは見え見えである。防衛庁自衛隊関係者に対して非礼極まりないが、勿論私の現役時代には「ぼろは着てても心は錦、今に見ていろ…」と言う心意気で勤務してきたから、古い上着でも一向に構わなかった。しかし創設以来52年、たとえブランド物の最高級品?であったにしても、体型はもちろん、時代に合わないのは当然だろう。
 朝日の読者の「皆さん」が国民のすべてではない。日本国政府を誹謗し、アジア近隣諸国にゴマをする自分たちや新聞読者を「私たち」などと呼んで、いかにも国民の総代であるかのように表現しているが、その時代遅れの感覚から抜け出さないと、朝日新聞はそう遠くない将来、この世から消滅するだろう。週刊金曜日並みの低俗な新聞が、日本の代表的新聞、と言う幻想は既に消えかかっている。朝日新聞こそ「古い上着を脱ぎ捨てなさい」と忠告しておこう。