軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

軍事と外交

 軍事と外交は車の両輪に例えられるが、テレビで報道される閣議前の閣僚の姿を見ると、安倍首相の向かって右に麻生外務大臣、左側に久間防衛庁長官が座っている。
 安倍総理の決意を物語るものか?と思って見ているのだが、単なる年功序列なのかもしれない。
 ところで聊か旧聞になるが、16日の産経新聞に興味ある記事が出ていた。その一つが2面下段の「話の肖像画」という欄の、青木盛久元駐ペルー大使の「公邸占拠事件」に関する思い出話である。例のテロリストたちに占拠されて、手も足も出せない状況下に陥った、在ペルー日本大使館占拠事件の最高責任者が青木大使であった。
 国内では、徹夜体制で情報収集する外務省員を労うのに、時の首相が銀座の有名パン屋のアンパンを抱えて外務省を訪れたと報じられたあの事件である。
 結局、フジモリ・ペルー大統領の決断で救出されたのであったが、国民の顰蹙を買った事件であったことは記憶に新しい。
 その当事者であった元大使が、聞き手の佐藤氏に「青年海外協力隊の事務局長も以前務められています」と聞かれて次のように語っているのである。
「はい、平成2年から3年間。それまでに、マニラでもナミビアでも隊員たちには大変お世話になりシンパシーを感じていましたので、事務局長を命じられたときはうれしかったです。でも反面、やや寂しくもあった」
「なぜですか」
「出世コースから外れたから。上司が開いてくれた送別会で『頑張ってきますので、2年ぐらいで外務省に帰してほしい』みたいな挨拶をしたら、来ていただいた平沼赳夫代議士に『お前そんな考えでいるのか。甘い、一生やれ』と目を三角にして叱咤された。あれで私も、とことんやる覚悟を決めました」
 人が良い?というべきか、素直だというべきか、こんな人間が日本国の代表たる大使を勤めているのだから実に情けない。占拠事件中も怪我すると出世できないからと、床を這い回っていたのであろう。確かそんな映像を見た記憶がある。目を三角にして怒った平沼議員の爪の垢でも煎じて飲むべきだろう。
 国家の外交よりも蓄財や己の出世第一を考え、気を抜いてかかったから真珠湾攻撃は「スニークアタック」にされてルーズベルトに散々利用される結果になったのだ。
 他方、産経の5面中段には、防衛庁長官(いや、初代防衛大臣)たる久間氏が、安倍首相と並んで着席している写真が載っている。本を読んでいるのかな?と思ってキャプションを見ると、「衆院本会議中にもかかわらず数字パズルに興じる久間章生防衛庁長官(左)=15日午後1時28分、衆院本会議場」とある。
 そういえば安倍首相の表情は眼を閉じて「見て見ぬフリ?」をしているようにも見える。「壁に耳あり障子に目あり」とよく母に教えられたものであったが、そんな「情報戦争」の基本も身につけず、日本国の防衛を担当するなんて、なんともまあ、平和で怠惰な日本国を象徴しているようで、ここ数日はバカバカしくてブログを書く気にもなれなかった。
 軍事と外交は、車の両輪といわれるが、これじゃ両輪とも後ろ向きに回転しているのじゃないか。少なくとも防衛庁長官は、イラクで黙々と任務についている航空自衛隊の輸送部隊や、インド洋で未だに健闘している海上自衛隊の補給部隊のことなど、念頭にないのではないか?
 その上、その写真のすぐ下に並んで、政府税制調査会の会長であり大阪大の教授でもある本間正明氏が、都内の公務員官舎に「入居資格のない女性と同居していた」という記事が出ている。
 なんという無節操な「大人たち」の姿だろう。こんな人たちが、社会の指導者だなんて、果たして次世代を担う青年男女に「物言う資格」があるのだろうか?
 事に臨んでは身の危険を顧みないと覚悟している隊員たちから、整列して「捧げ銃」される資格があるのだろうか?
 明治大帝は、日露戦争中、兵食を召し上がられ、衣服も酷寒の大陸で戦う兵と同じ薄着を召されていた、といわれる。それこそ人の上に立つ者の覚悟だというものである。「自覚ある行動を取ってほしい!」と大声で叫びたくなるが、とても期待できないし今更無駄な様な気がしてならない…。

 ところでコメント欄に、たか>氏が青山レポートを貼り付けてくれていた。硫黄島を訪問した青山氏が、見捨てられた多くの戦没者の遺骨を何故国は収集して遺族に返還しないのか!とスタジオで涙を流しながら訴えているシーンがある。
 昭和57年秋、私は防衛研究所の研修生として硫黄島を訪問した。まだ自衛隊の基地建設直後とあって、島に駐屯する同志たちに水や週刊誌、古新聞などを届けたものだが、現地を案内されて涙が出た。こんな熱気篭る洞窟陣地で、懸命に祖国防衛のための捨石になった兵士たちの姿が見えた様な気がしたのである。
 島に駐屯する自衛隊員たちは、休日といっても何も出来ない環境だから、こつこつと遺骨を収集して供養し、厚生省職員に手渡すのを日課にしていた。ある先輩は、遺骨を収集しつつ<明日はわが身>と感じたという。
 2度目は広報室長時代に記者団を同行して訪れた。滑走路に溜まる雨水を飲用水にする装置が完成していたから、水は良くなっていたが、まだまだ英霊たちの姿が島中を覆っていて、遺骨収集は継続されていた。是非青山レポートをご覧戴きたい。『http://diablo.web.infoseek.co.jp/movie/aoyamanaku061213.wmv

 その他、hitotubu>氏やtazaemonn>氏などからも質問があったが、首都分散もそうだが、指導者も国民も国家非常事態に関する意識が欠如しているようでは、核武装論議もこけおどしにしか聞こえまい、と思う。勿論、論議は大いに高めるべきだが、日本人の欠点というべきか、全体よりも一極集中型で議論が沸騰するのが情けない。
これもまた戦後の「軍事軽視」のツケだと思うのだが。