軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

少女・アシュリー

 昨夜は、フジテレビの「サイエンス・ミステリー」を見て考えさせられた。以前から、プロジェリアという肉体年齢が常人の10倍以上進むという奇病がある事は知ってはいたが、アシュリーという米国に住む15歳の少女のドキュメンタリーは「人間、人生」について深く考えさせられるものであった。
 平均寿命は13歳というから、既に彼女は2年も長生きしていることになるのだが、高校生活を終わるに当たって、好きな動物関係の仕事につきたいのだという。 両親、特に母親のすばらしさには感動するが、高校教師も、職場体験したアニマルショップの店長、マネージャーも、老化した肉体で苦しむ、明日をも知れないアシュリーを何ら特別扱いをしないで支えるところがすばらしい。日本だったら彼女はどんな生活をしたであろうか?周囲の目はどうだろうか?社会システムは彼女を“常人”として扱うだろうか?興味本位の目で見るか、それとも逆に“手厚く保護”するかのどちらかではなかろうか?と考えさせられた。
 卒業を控えてアシュリーは気に入ったアニマルショップにアルバイトを申し込むのだが、店としては常人のアルバイトが欲しいにもかかわらず、“手がかかる”彼女の採用に踏み切る。その影にはマネージャーの女性の店長に対する働きかけがあったのだが、店長もリスクを負う決断をするのがすばらしい。しかも規則どうりに見習い期間はアルバイト料を払わない、という。生きるということの厳しさを教えるというのだが、その間、採用の可否を知らせる電話を待つアシュリーの姿が、なんとも言えず微笑ましく、それを見守る母親の姿は実に大人だと思う。
 そして採用通知が来たときの彼女の笑顔に思わず涙が出た。そしてアシュリーはこう言うのである。「何時別れ(死)が来てもおかしくないが、自分は“あるがままに”それを迎えたい」「人間は自立すべきで、何時までも両親とともには居られない。親も歳をとり、老人ホームに入るかもしれない(といって彼女は笑う)」
つまり、アシュリーは生ある間は、ひたむきに、前向きに人生にチャレンジしているのである。そして短い期間でも少しでも「社会に役立ちたい」と考えているのである。そこが“常人”と彼女の大きな差であろう。肉体は老化しているが、彼女の魂はすばらしく磨かれているのである。
 800万人に一人という難病を背負った、アシュリーという15歳の少女の生き様に、生活も生命も、五体までもが満足に生きることが“保障?”されているこの国の青年男女の生き様とが重なって、あまりの違いに深く考えさせられた。
 アシュリーのけなげな生き様に、思わず「この世に神は存在するのか?」「神が存在するのなら、アシュリーを何故救わないのか?何故神はひたすらまじめに生きる人間を救わないのか。無常だ!」と呟いてしまったのだが、傍から家内にたしなめられた。
 私は34年間、戦闘機乗りとして生きてきた。戦闘機乗りは、一旦エンジンをふかして離陸し、脚を上げてしまえば、その後何が起きようとも空中で自ら解決しなければ生きては還れない。頼りになるのは自分自身である。勿論結果として「ツイテいた!」と感じることはあるにしても、機体が故障しても、坂井三郎元海軍中尉のように、頭を撃ち抜かれて目も見えず、意識朦朧としても、自分で基地にたどり着かない限り誰も助けてはくれない。隊長も司令官も、ましてや防衛大臣が助けてくれることなんぞ“絶対に”ない。そんな生活がしみこんだ私だから、つい神が救ってくれることなんかありえない!とアシュリーのけなげな姿に重ね合わせたのである。扶桑社で彼女の本を出版したという。早速買い求めて、もう一度感動に浸りたいと思っているが、フジテレビには総集編を放映してもらいたいものである。
 戦争や紛争、殺し合いや悪質な事件事故が続き、うんざりする毎日だが、昨夜は久々に「人生について」深く考えさせられた。
 アシュリーが、好きな動物達に囲まれて、充実した人生を送ることを祈りたい。