軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

米国防総省内にイラン爆撃計画チーム

 今朝の産経新聞7面に上記の記事が出た。「大統領命令から24時間以内に実行」出来る計画を立てていると、ニューヨーカー誌が伝えたものだが、当然国防総省のスポークスマンはこれを否定している。しかし、世界情勢を「岡目八目」で見ていても、イランを取り巻く情勢が緊張していることは否定できない。
 そこで思い出すのは1986年4月15日に米国が決行した「リビアへの報復攻撃」である。当時の大統領はかの有名なレーガンで、副大統領はブッシュ、国務長官はシュルツ、国防長官はワインバーガーであった。
 この頃も今と似て、各地で凄惨なテロ事件が多発していた。1985年10月、イタリア客船「アキレ・ラウロ」号が乗っ取られて米国人一人が殺害されたが、犯人のパレスチナ人4人は、投降先のエジプトからエジプト軍のB−707でパレスティナ解放機構へ移送されるため離陸したが、待ち伏せしていた米軍の艦載機F-14・4機に補足されてシチリアNATO管理下のシゴネラ空軍基地に強制着陸させら、犯人はイタリア当局に拘束された。
 当時の新聞各紙は「反撃を米世論は歓迎するが、中東和平には暗雲が漂い、テロの報復合戦が始まる」と憂慮した。例えば朝日は10月12日の社説で「乗っ取り犯は捕まったが」と題して、「テロに対しては断固たる報復措置をとるというレーガン大統領の言明を、米国は今度の軍事行動で裏付けた。・・・だが米国民は喜んでばかりはいられないはずだ。・・・今回の強硬作戦は、パレスチナ・ゲリラに今後の作戦を思いとどまらせる見せしめ効果よりも、むしろ、報復や犯人奪回を目的とするテロ行為の拡大を招くのではないかと懸念する意見が米国内にもある。力ずくの政策は影響が大きい」と書いた。毎日は10月14日に「レーガン人気復活に一役」として、「イタリア船乗っ取り犯人の逮捕で、レーガン大統領は甦った。レイム・ダックとなる道を懸念されていた同大統領が完全にリーダーシップを復活させた。米国人はやはり力に酔いたかったのだ」と書いたが並列してニューヨーク発共同電があり、そこには殺害された米国人乗客レオン・クリフォードさんの妻マリリンさん(58)が米軍機で帰国し、友人を通じて「帰国の途中、シチリアで犯人達と面会したが『見下げ果てた人間達だ』とののしり、つばを吐きかけてきたこと、レーガン大統領が自ら電話をかけてきて『あなたに神のご加護を』と慰め、『これからテロリスト達が私を憎む理由がもっと多くなることを望んでいます』と語った」という。
 翌年4月5日、カダフィイ大佐は西ベルリンのディスコ爆破事件を起こして“報復”するが、米国はディスコ爆破や、トランスワールド機爆破などの黒幕がカダフィーであるという動かぬ証拠を握り、直ちに第6艦隊をリビア沖に派遣、リビア攻撃態勢に入るが、カダフィーは「アメリカは軍事行動とは無縁のリビア国内の民間施設を攻撃すると脅迫している」と激しく非難し、「NATOがこれに加担したから南欧の全都市を反撃計画目標に含める」と欧米を恐喝した。イタリアのクラクシ首相は「組織的な国際テロに困惑している。西側の行動は断固足るものであると同時に慎重でなければならない」と表明、西ドイツのコール首相は「気持ちは分かるが情緒的な反応だ」として米国に慎重さを求め、欧州各国のメディアは「リビアとテロとの関係」を結びつけることに「無理を感じている」と報じていたし、リビアを支援するシリアは、米国とイスラエルを強く非難、一方ソ連は、空母「コーラルシー」「アメリカ」を含む米第6艦隊主力21隻が集結し、さらに「サラトガ」が本国から駆けつけ、リビアへの攻撃態勢を取ったことを知って、地中海のシドラ湾沖に展開していたソ連艦船のすべてを引き上げさせた。これは「ソ連にはリビア支援の意思はない」というシグナルであったが、一応モスクワでは外務省新聞部のスーヒン副部長が「主権国家を脅迫し緊張と紛争の激化をもたらすネオグローバリズムの政策を非難する。今後もリビアとは友好と協力の関係にある」という、米国に対する“警告”を発し、国際非難を高めて米国を牽制する戦術しか取らなかった。
 米国の攻撃が近いことを察したリビアは、攻撃目標に「米国人達」を移動して人間の盾を構成していた。
 そして15日未明、米国はトリポリベンガジへ、F−111など33機で3波に渡る攻撃を行い、カダフィー大佐の自宅を精密誘導兵兵器で攻撃したが、家族が死傷しただけで本人は取り逃がしてしまった。
 攻撃後米国は、「3月にカダフィーは世界中の東ベルリンを含むリビア人民代表部に対して米国民及び米国の施設にテロ攻撃をする様指示」したこと通信傍受などで掌握していたことをあげ、「今後のテロ活動に対する先制攻撃」であると強調した。この時、英国内の基地から発進したF−111・18機は、隠密裏にフランス上空を通過してトリポリに直行する計画だったところ、フランスの強硬な抵抗によって、ピレネー山脈沿いにスペイン側に迂回したため10分遅延したのだが、これがカダフィーを討ち漏らした最大の理由だった、と後で聞いたことがある。湾岸戦争など、それ以降のイラク問題などで、米仏間が何と無くギクシャクしていた理由はそんなところにもあるのだろう、と私は思っていた。
 この米国の攻撃に恐れをなしたカダフィーは、やがて改心?して米国の“軍門に下った”ことは周知のことだが、さて、あれから20年余、緊張するイランに対して米国がどのような行動を取るのか。ライス長官の中東歴訪、チェイニー副大統領の訪日と訪豪などなど、中近東情勢を巡る米高官の動きがあわただしいが、大いに気がかりである。