軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

晴整雨読!

 猛暑が続いたので、晴耕雨読ならぬ、晴整雨読(畑仕事ならぬ書斎整理!)だったが、特に強い印象を受けたのが「反転=闇社会の守護神と呼ばれて:田中森一著(幻冬舎)」であった。ベストセラーになっているから、私のブログ読者の方々もお読みになっていることだろう。
 1943年長崎県平戸の出身、貧しい家庭に育ちながら勉学にいそしみ、「岡山大学法文学部在学中に司法試験合格。71年、検事任官。大阪地検などを経て東京地検特捜部で撚糸工連汚職、平和相互銀行不正融資事件、三菱重工CB事件などを担当。伝説の辣腕検事として名をあげ、87年、弁護士に転身。2000年、石橋産業事件をめぐる詐欺容疑で東京地検に逮捕、起訴され、現在上告中」とカバーに紹介されている。
 社会の裏と表、正義とは何か?などなど、考えさせられる内容だが、私が特に感心したのは、関係者のほとんどが実名で記載されているという点である。政治家や官僚、有名企業幹部、人気タレントはもとより、“ヤクザの世界”も、登場人物は実名で書かれていたことに感心した。
「人生いろいろ」とは歌の題だが、田中氏の人生は正にそれを実感する。
「闇社会の守護神、特捜のエースと呼ばれてきても、しょせんその程度だったのではないか、と正直に思う。日本という国に存在する、深く真っ暗い闇がそこにある」と田中氏は締めくくっているが、功なり名を遂げて一世を風靡しても、その生き様によっては「しょせんその程度」であることをも思い知らされる。要は本人がそれに気がついているかいないかの差であろう。読み終わると大きなため息が出ること間違いない。御一読をお勧めする。

 ところで昨日は知人が「盗聴=二・二六事件:中田整一著(文芸春秋)」を送ってくださった。
「昭和史最大の謎を載せた録音盤が回り始める。青年将校の叫び、名もなき兵士達の苦悩、うごめく陸軍中枢……、七十年の時を越えて、いま甦る極限の人間ドラマ!」と帯にあるが、二二六事件の裏に隠された人間ドラマである。 目次を広げて目に入ったのが、第9章の「将軍たちの明暗」で、読んでみて同じ“軍服?”を着た者として深く考えさせられた。悲劇の将軍として名高い、山下奉文大将に関する記述だが、あの“マレーの虎・猛将軍”の人間らしい一面に触れてほっとする。
 開戦直後、怒涛の如き進撃でシンガポールを陥落させたことは有名だが、武勲に輝く山下将軍は、なぜか東京に凱旋して天皇に拝謁することもなく、同年7月に北部満州に“左遷”された。その原因が二二六事件にあったことは周知の通りだが、そこには軍官僚内部の出世主義、派閥闘争の暗い影があった。言うならば「一将功なりて責めを負わされる」と云うところだろうか。
 軍人であれ、官僚であれ、政治家であれ、しょせん生き物、悩みを抱えた一人の人間であることに変わりは無い。その評価は結局個人の人格にあり、それはつまるところ“教養の差”に行き着くように感じられるのだが、この書には、昭和19年9月28日に、任地である牡丹江から首都新京を経て、フィリピンへ出発する時の様子が次のように描かれている。
 山下将軍は、新京で満州国皇帝・溥儀に拝謁し、関東軍司令官山田乙三大将に挨拶したあと、新京飛行場からフィリピンへ向かった、ということになっているのだが、著者の中田氏はその間5時間あったことに気がつき、その空白の時間に皇帝溥儀の御用係であった吉岡安直中将の自宅を訪問していることを知ったのである。
関東軍司令部で吉岡中将と会った山下は、吉岡の娘・和子と夫人が在宅しているのを確かめたのち、飛行場へ向かう筈だった車を急遽、吉岡家へ向かわせた」
 そしてその模様を、当時新京の敷島高等女学校専攻科に通っていた吉岡(槇)和子の話として次のように付け加えている。
「吉岡家の門前に車を止めた山下は、運転手がドアを開けるのも待たずに車を飛び降り、『カズちゃーん、カズちゃーん』と、大声を張り上げて、玄関に飛び込んだ。和子は、日課であるピアノのレッスン中であったが、窓越しに山下の姿を認め、大急ぎで玄関に飛んでいった。・・・(シンガポールから)渡満直後、新京に半年ほど滞在した時期が山下にはあった。そのとき、失意のうちにあった彼を招き、暖かくもてなしたのが吉岡家だったのである。山下は、昭和二年、オーストリアの公使館付武官としてウィーンに滞在したことがある。そのため、無骨な風貌に似ず音楽や美術への造詣が深く、やはり美術愛好家だった吉岡中将とはよく話が合った。また山下は子供が大好きであった。これは若い頃からで、山下を知る人の間では語り草となっていた。
 吉岡家では、次女・和子をとくに可愛がった。和子が習いたてのベートーベンのピアノソナタ『悲愴』を弾くと山下は大喜びし、よくアンコールを求めた。
 常々、山下はベートーベンの『悲愴』がクラシック音楽の中で一番好きだと和子に語った。山下は自らの悲劇的境遇を『悲愴』に結び付けてこの少女に語っていたのだといったら、うがちすぎだろうか。
 突然、吉岡家を訪れた山下は、玄関に立ったまま、『僕はこれからフィリピンに行くからね。後をよろしく頼んだよ』とだけ言い、多くは語らなかったという。だが、年少の和子の目にも、山下の悲壮な覚悟ははっきりと見て取れた。『和ちゃん、日本の女性は、優しく、強くなっておくれよな』
 これが満州を後にするとき、山下奉文がひとりの少女に残した惜別の言葉だった」

 大本営は、昭和19年11月9日に、山下大将の比島第14方面軍司令官への転補を発表した。
『山下は、このフィリピンでの戦場での、日本軍の部下が行ったとされる幾多の残虐行為と重大犯罪の責めを一手に負って戦後、死刑に処せられた。61歳であった。山下は軍人としての生涯で二度も、組織の犯した大きな罪を背負う、悲運な巡り会わせとなった。すなわち、二・二六事件と比島戦である」
 
 私は既に68歳、61歳でこの世を去った山下将軍の年齢を既に7歳も上回っているが、とてもその足元にも及ばないことを痛感する。山下将軍の人生は悲運だったといってしまえばそれまでだが、そんな時代に生まれた『宿命』だったのであろうか?。しかし、軍人としての生き様の何と見事なことだろう。

 前掲の『反転』の著者・田中弁護士の生き様と重なるところがあり、読後、“人生いろいろ”と深く考えさせられた次第。

盗聴 二・二六事件

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反転―闇社会の守護神と呼ばれて

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