軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

第二の敗戦?

 7日、新春恒例?のチャンネル桜「防人の道」に出演したら、後輩から「初日の出を拝むことが出来ました!」と電話が来た。来年からは「お賽銭」を頂くことにしよう!
 井上キャスターとの「漫談」は、事前に何の打ち合わせもないから、担当の「題目掲載係」の女性がいつも困惑する。雰囲気次第で流れのままなのだが、その上何をしゃべってもカットされることはないから、逆に気を使う。
 7日は、長男が「平成も20年を迎えた。敗戦した昭和20年と同じ期間が過ぎた」と言ったことに衝撃を受けたことを話したのだが、確かに昭和20年8月15日とほぼ同じ期間の平成20年が経過したのである。「2008年危機」などと西洋かぶれ的発言をしていたから、私もついうっかり見逃すところだった・・・。勿論年賀状には「平成二十年元旦」と書いてある。
 転居してきたここの住宅街でも、国旗掲揚は依然として我が家だけで、元日に近所の八幡様まで初詣に行きながら観察したが、2軒だけであった。門松も飾っていないところが多い。日本の伝統文化はどんどん衰退していることを痛感する。次男が「やがて10年もすると“赤い地の国旗”が立つのでは?」と言ったが何と無く信憑性がある。
 この「20年」説については、「月刊日本」の来月号に原稿を書いたので、それを御参照いただければ幸いである。
 また、「SAPIO」にも「防衛省を巡る利権争い」について意見を求められたので、今送稿したところ。少し長くなったので、プロが裁いてくれるだろうと期待している。

 さて、月曜の産経新聞は興味深い記事が多かった。まず石原知事連載の「日本よ」だが、地球温暖化でツバルが水没しかかっていることなどにつき、「それらの出来事は、それが眼前に到来しない国の人々にとっては所詮他人の死でしかありはしない。自由を喧伝する先進国の全てが、異文化異民族のチベットが中国に強引に併合されるのに全く関心を持たなかったと同様に。しかし地球の温暖化による異変が、どうやら自分自身の生命の存在にかかわるものらしいと気づいた時にはもう遅いのだ」とあるのは全く同感である。チベットもそうだが、やがて台湾もそうなってくる。そうなってからでは遅いのに・・・
 横田めぐみさんに象徴される拉致問題も、自分の親族が拉致されない限り、誰も深刻には考えないだろう。福岡の3人の幼児水死事故を招いた飲酒運転手に対する裁判官の判断も、文章だけで判断していて、飲酒して12秒間もわき見していた容疑者の異常さとことの重大さが分かっていない。12秒間息を止めてみるがよい。結構長い時間だと認識できるだろう。そんな「長時間」、時速100kmで走行しながら脇見をしていたのである。
 見方によっては飲酒運転を幇助するような判決だから、裁判官も飲酒運転幇助罪で事前に告訴されるべきではないか?
 衆院選を前にした予測記事が4面5面と全面を埋めているが、タレントまがいの連中の顔なんぞどうでもいい。所詮は彼ら彼女らの「就職活動」に過ぎまい。
「正論」の上坂冬子女史も、防衛省などのスキャンダルについて、「ニュースが堕落していないか」と手厳しいが、今や堕落なんて状態じゃないと私は思っている。
 上坂女史は北方領土返還のデモ行進に参加した体験で、婦人警官の「失礼な」対応を非難しているが、「婦人警官の無知を責めるより、北方領土問題に対する一般の認識がこの程度だと言うことに思いをいたすべきだろう」と納得している。まさにその通り、国民がデモ行進までしなければならないのは「地元住民の声を政府が本気で取り上げようとしなかった」結果であって、デモ行進を規制した婦人警官の罪ではない。C型肝炎の被害者達もそうであった。国の無責任を、自己の犠牲で償ったのだが、政府は法的救済をしたとはいうが、当時の責任者の処罰は回避したから、何のことはない、賠償金は国民の血税から支払われるのであり、関係者の懐はちっとも痛まない!
 被害者は自分の税金で支払っているようなものである!
「今年は理不尽に対して激する姿勢を取り戻し、従来の悪しき平和をかき乱したい」と上坂女史は「正論」を結んでいるが、御高齢な女性作家のやる気に比べて、ニュースをつくっている男共の不甲斐なさはどうしたことだろう?
 曽野綾子女史の「透明な歳月の光」も興味ある欄だが、「政府が無力だから選択の余地がない:日本人の知らない世界がある」という今回も考えさせられた。
 南アという「豊かな地下資源を持つ国に、性産業に従事することでしか今日を生きられない女性たちがいるのが貧困の現実なのである。今日強制されたセックスを拒否すれば、今日食べられない。田舎にいたら失業者だった鉱山労働者と、貧困な家庭に育って教育も受けていない女性やシングルマザーが、売春で今日食べていくために都会や鉱山の町に集まる。そこで新に生まれる父親のはっきりしない子もまた、HIVポジティブになる」「幼児を抱いてエイズの末期を迎えた母親は、ただ赤ん坊を見ているしかない。その子もまもなくエイズで死ぬのだろう。政府が無力だから、生き方に選択の余地がない、という追い詰められ方を日本人は知らない」と南アで見たイギリスのテレビ番組を「人間の極限の状態を知らせる番組を作る態度に、私は敬意を払いたい」と評価していたが、これに比べて日本国内の状況は、まさに恵まれた修羅界・餓鬼界に堕していると思う。
 今若い子供達が徘徊している都心で起きていることは、生きるためのセックスではなく、快楽を求める刹那的セックスであり、高等教育を受け裕福な家族もいて、何不自由ない「一般家庭の子女」が「娯楽感覚」で楽しんでいて、その結果招いているHIV感染であり人生の破綻である。
 政府は無力?だからそこは似ているが、決定的に南アと異なっているのは、生きるための真剣さであろう。それに英国とは違ってこの国のテレビは低俗な登場人物の生活の場になっている。所詮はそんな連中の「井戸端会議」、お付き合いする方が愚かというべきである。
 長男が言ったように、やはり平成20年の「8月15日」は間違いなく迫っているようだ。

日本を思ふ (文春文庫)

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福田恒存著作集〈第8巻〉評論編 (1957年)

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福田恆存評論集〈第8卷〉教育の普及は浮薄の普及なり

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