軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

隠された歴史に光を!

 16日の土曜日は充実していた。午後一杯、「大川周明の今日的意義」と題する拓大日本文化研究所主催のシンポジウムに出席した。
 拓大でのシンポジウムは、表記の題で姫路独協大大塚健洋学長が基調講演し、引続いて井尻所長の司会で、大塚学長、佐藤優氏、関岡英之氏、山本哲朗(大川塾2期生・86歳)氏によるパネルディスカッションが行われた。
 日本史辞典には、「大川周明:1886〜1957。昭和期の国家主義者・右翼思想家。山形県生まれ。南満州鉄道株式会社に勤務、後右翼団体猶存社・行地社・神武会』などを組織し、5・15事件には資金を提供、2・26事件にも影響を与えた。第二次世界大戦後、A級戦犯となったが、審理中に発狂し釈放された」とある。“発狂”とは、東京裁判中に前席の東條首相の頭を『ポカン』と殴ったことである。
 パネラー各氏は、それぞれ大川周明に関する研究者で著書を著している方々だから、詳細は著書によるとするが、私は、彼については薄っぺらな知識しか持っていなかったから大変参考になった。
 大塚学長は大川周明を「日本人としての主体性、過去とのつながりをどう現代に生かすか、そこにどう主体性を生かすか!に腐心した、儒教にもとづいた総合的知識人」という表現を用いていた。
 パネルディスカッションでは、山本氏が、大川塾のモットーは『正直と親切』であり、インド独立の裏話をされたが、このような歴史の真実は、戦後意図的か否かにかかわらず“隠された”ので、日本人に知られてはいない。

 昭和39年9月25日、私が操縦課程の学生だったころ、静浜基地を訪問された藤原岩市第一師団長(当時)の講話を伺ったことがあるが、藤原陸将は昭和16年にF機関の長になった方で、インド解放に活躍された方である。当時の「将校日誌」に私はこう書いている。
「旧軍時代に、藤原特務機関としてインド解放に活躍せし方なり。終戦後の捕虜生活を通じ体得されし貴重なる至言を残されたり。
1、己を恐れ神を畏れよ。・・・裸になって(階級章なし)光を放つ人はまれなり。如何に多くの人々、事象に支えられて己はあることか!
2、人生に絶望なし。・・・人は「だめだ」と思ったとき事は終わる。心臓の最後の鼓動が止まるまで、望みは捨てぬことが大切である。
3、自分のなしたことは自分に返ってくる。・・・人に対する善は、いずれ自分か子供、部下に返ってくる。悪も同じである。

 この三つの言はまさに至言なり。日頃の余の考えと心を一にするところ大、嬉しき限りなり」
 そしてこのページには、指導を受けた義父・寺井義守が次のようなことを書いた付箋がついている。「人爵を得た人は多いが、天爵を得た人は寥々たり。自衛隊に今、幾人の天爵人ありや」
 寺井は霞ヶ浦の飛行学生時代に、一期上のF中尉から誘われて、大洗の法華寺を訪ねたことを次のように記録に残している。
「【血盟団事件の人々】
 F中尉は大変な悲憤慷慨居士であって、いつも天下国家を論じ、世の不公平を慷慨していた。特に弱者に対しては格別の感情があったようである。・・・彼の元には西田悦氏など、陸軍や民間の、いわゆる“国士”が頻繁に出入りし、彼もまた日曜日ごとに上京して右翼仲間に出入りしていたようであった。ある日彼から『大洗の法華寺の日召という住職が偉物だから行ってみないか?」と誘われたので大洗に行った。そして法華寺に「井上日召」という住職を尋ね、庫裏に入ると大勢の先客がいたが、話をするうちに近郷の学校の先生でHという人が米などを持ち込んできて食事の用意をしている。酒も出て、話は天下国家のことで水戸は昔から国士を生むところだと感心した。
 集まっている人たちの中に、Sという人物もいたような気がする。その時はそれで済んだが、後日濱口首相が東京駅でSという青年に刺され、井上日召日蓮宗の僧侶の一人一殺主義の仲間であったことを知って驚いた。
 先日、私は40年ぶりに大洗に行き護国寺を訪ねたが、昔の面影がそのままであり、堂内には当時の志士達の写真がところ狭きばかりに掲げてあり、その中にF中尉の写真もあって懐かしかった。
 時代は変わっても、日召師に縁のある若い住職がいて色々と話をしてくれた」
 再訪したのは、私が百里基地の飛行隊長だったときで、両親を案内したのである。若い住職が丁寧に案内してくれた。海兵50期から義父と同期の54期生が多く掲げられていたから、しみじみと見上げていたことを思い出す。
 結局義父は卒業後上海事変に陸戦隊指揮官として出征したので、5・15事件には関わらずに済んだのだが、軍艦「霧島」に乗り組んでいた時軍事法廷に呼び出されたという。さらに日記はこう続く。
「5月15日に5・15事件が起こった。首謀者のうち、私のクラスの三上卓、黒岩修の両名がいた。F君はある航空隊で勤務中に上海の戦闘に参加して戦死していた。これは大変なことが起こったと思っていたが、翌日になると憲兵が1人「霧島」にやってきて、艦長に面会して私に用があるから軍法会議に出頭せよ、と申し込んだ。体の良い逮捕である。軍法会議に出頭すると、検察官は私から色々なことを聞いたが、要は先年大洗の護国寺に、F君と一緒に井上日召師を訪ねたことのようであった。軍法会議に2,3日留めおかれて調べられたが、5・15関連の嫌疑がないことがわかったので、釈放され帰艦を許された。帰艦に際して検察官は、『君は井上日召の許へ“人物試験”のために連れて行かれたのだが落第したのだ。及第していれば危なかったな』と話した。
 後日、私が戦後海上自衛隊に入り、佐世保地方総監を拝命して佐世保に着任し総監邸で一杯飲んだことがあった。その席で山中辰四郎佐世保市長は『私は5・15事件当時、佐世保軍法会議の書記をしていたが、これに関連した佐世保基幹の艦船乗組員の某中尉を取り調べたことがあった」と話し出したが、『その中尉は私であった』とついに言いそびれてしまった。山中市長も当時の悪童中尉が今眼前に、自衛隊の総監となって佐世保にきているなどと思うはずもなかった(以下省略)』

 歴史の片隅に追いやられているこれらの事象に、もう一度光を当てて考察してみる必要があるのではなかろうか?今回は機会をとらえてパネラー方の大川周明に関する著作を読みたいと思った次第。

 

日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く

日米開戦の真実 大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く

大川周明の大アジア主義

大川周明の大アジア主義

大川周明―ある復古革新主義者の思想 (中公新書)

大川周明―ある復古革新主義者の思想 (中公新書)

復興亜細亜の諸問題 (中公文庫)

復興亜細亜の諸問題 (中公文庫)