軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

ソ連参戦を髣髴するグルジア侵攻

 静かなお盆、身辺整理に精を出しているが、ブログのコメント欄が沸いている。福田発言の「せいぜい」の解釈だが、せいぜいは“精精”と書き、中世期の「精誠」が変化したものという。しかし今や「出来るだけ努力する」ことを表すとはいえ、「精精それが関の山」という風に「どんなに多く見積もってもそれが限度」という意図で使用されている、と私は理解している。元戦闘機乗りの国語力は“精精この程度”である!


 「平和の祭典」五輪の陰で、「戦争の祭典」がうごめいている。グルジア問題だが、米国は本気で動き出した。フランスのサルコジ大統領に次いで、ドイツのメルケル首相もメドベージェフ大統領に苦言を呈し、欧州情勢は緊張していることがBBCやCNNでは伺える。
 紛争解決に向けた6項目の「和平原則」に、双方ともに署名したものの、ロシアは「グルジア国内の治安が安定するまで」部隊を撤退しないという。しかもロシア軍は首都トビリシまで40kmに迫っているという。
 こうなるとグルジアのサーカシビリ大統領が選挙で選ばれた「民主主義体制」の首長である以上、彼を擁護する米国は後に引けない。ライス国務長官がサーカシビリ大統領と会い、5時間以上も説得して和平原則に署名させた関係もあり、米国もこれを無視するロシアは容認できまい。サーカシビリ大統領は、ロシアに甘い欧米に不満を呈していたらしいから尚更である。
 調停が失敗すれば、グルジアは再びロシアの勢力圏に取り込まれる。ポーランドが米案を拒否して停滞していたMD配備交渉が急転直下合意に達したのは、グルジア紛争が背景にある。米国は、ポーランドの要求に妥協して、ペトリオットミサイルを配備し、有事に際しても軍事協力することを約束したが、注目すべきはパトリオット操作要員として、米軍人がポーランドに駐留し、ポーランド有事には米軍がNATOよりも迅速に対応することになった点である。数限りないソ連の暴虐を体験したポーランドならではの動きだが、米国の動きにも今回は「本気」が感じられる。

 産経によると、首都トビリシ西方40kmのイゴエティ村まで接近したロシア軍は、村の主要鉄橋を爆破したという。グルジア政府は「軍事拠点とは全く関係ない鉄橋で、グルジアを東西に貫く主要鉄道網がこれで使えなくなった」という。

「63年前に満州北方領土に侵攻したソ連軍を思い出す!」

 南オセチアに駐留しているロシア“平和維持軍”も増員される見通しだが、ロシアは「和平原則と矛盾するものではない」と強弁している。
 和平協定や原則を全く無視し、「矛盾するものではない」と強弁する姿は、63年前に「日ソ不可侵条約を一方的に破って」満州北方領土に侵攻してきた、スターリンソ連軍を髣髴とさせる。
 この国の軍隊は、相手が弱いと見ると強引に侵略する。当時、満州にあった関東軍は、南方に主要戦力を抽出されてほぼ「もぬけの殻」だったから、それを知って侵攻してきた第一波のソ連軍の戦車砲には、栓がしてあったという目撃談さえある。
 しかし、支那派遣軍司令官の岡村大将は、ソ連軍侵攻の報を受けるや第118師団を増援に向かわせた。内蒙古地区を守っていた北支派遣軍傘下の駐モンゴル部隊は、僅かに独立混成第二旅団(響兵団=約5千人)だけだったが、陣地を構築して頑強に戦い、邦人約4万人を救っている。
 樺太、千島に侵攻してきたソ連軍も、守備する第88師団に抵抗されて苦戦を強いられていたが、大本営からの「停戦命令」を受けた峯木師団長はやむをえず8月17日に「即時戦闘中止命令」を出す。
 これを受けた各部隊は軍使を派遣して「停戦」を申し入れたが、真岡方面では艦砲射撃の後、8月20日にソ連軍が上陸を開始する。真岡守備の第25連隊長・山沢大佐は、停戦を申し入れるため軍使を派遣したが、白旗を掲げて交渉に向かった副官・村田中尉以下軍使一行は、マンドリン(機関銃)の一斉射撃でなぎ倒される。
 避難している真岡住民までもが一斉射撃で虐殺されるのを見た日本軍兵士は、再び銃を取って前面に迫る敵と交戦、ついに総反撃を開始したのである。
 真岡郵便局の女子局員9名が青酸カリで自決したのはこの時であった。

 終戦で、3隻の輸送船に乗って真岡を出航して内地に引き上げていた避難民は、22日に北海道留萌沖でソ連潜水艦に攻撃され、2隻が撃沈、1隻が大破された。このときの犠牲者は1700名だったと言われている。
 
 真岡に上陸したソ連軍は、首都豊原に進撃したが、激高した逢坂の第25連隊将兵が迎え撃ち、熊笹峠でこれを阻止する。

2003年10月・熊笹峠で

 しかし、「俘虜となるとも停戦すべし」との師団命令を受領した連隊長は、村山中尉以下5名の軍使を派遣したがことごとく射殺される。更に激高した兵は戦闘を続けるが、連隊長自らが軍使としておもむき、漸く停戦となる。
 現場の日本軍将兵は「国民を守るべき自衛戦」と「大本営命令」の板ばさみに苦しんだのである。こうして第88師団は「屈辱の武装解除」を受けたのだが、約束に反して全員シベリア送りになった。こんな事実を知りもしない政府要人たちにはあきれてものも言えない。知っていれば、普通ならロシアにもっと強硬な意見が出来る筈だろうに!
中国だって同じ事である。無知につける薬はない。

負けたのではない。天皇の命令で停戦したのだ!」
 
 平成15年10月、私は生まれ故郷・樺太に2度目の訪問をしたのだが、真岡の慰霊碑を参拝しつつ、虐殺された邦人の無念を思った。
 これが「当時のソ連軍」の実態であり、ロシア軍となった今でも、グルジアにおける戦闘を見ていればその残虐さは想像できる。DNAは急には変わるまい!

 「平和、平和」と唱えておけば、他力本願、身の安全は保障できると錯覚している“玉抜き日本政府”に、紛争を解決して「世界平和に貢献する」意欲はなさそうだから、せめて片手に「平和」を、片手に「紛争」を抱えつつ「貢献」しようとしている大国が、この急場をどうしのぐか?、大いに興味を持って観察することにしたい。

2003年10月、真岡の慰霊碑参拝。上は真岡港

世界に開かれた昭和の戦争記念館〈第2巻〉大東亜戦争と被占領時代

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