軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

『樺太紀行(3)』…「愚劣な共産政権」の罪  

 パンをジュースで流し込む昼食が終わると、サーシャ氏が「戦没両軍兵士のために『弔銃』を撃つ」というので、旧国境線の記念碑前に集合すると、彼が「猟銃」と呼んでいる軍用銃を三発発砲した。乾いた銃声が原野にこだました時、火事場泥棒の様に不可侵条約を破って侵入してきたソ連軍を迎え撃った我軍将兵達の無念さが忍ばれた。

『国境線のトーチカ跡』


『国境の記念碑』



天皇の命により、整斉と“武装解除”に応じた第88師団』 


 午後二時、元来た道を南下してポロナイスクに向かう途中で生々しい交通事故の現場に遭遇した。スピードの出し過ぎで対向車の大型トラックを避けきれなかったものか、道路から数メートル離れた草むらに乗用車が転覆、パトカーが調査中であった。「救急車は?」という我々の問いに、「乗用車の方は多分駄目だろう」とサーシャ氏が素っ気なく答えた。
 気屯村に入ると再び同じ兵士から検問を受けたが、北上する日産ディーゼル十トントラックを銃を構えた中年の兵士が検問中で、我々を珍しそうに見たがその目には気力がなかった。大体、この検問所を通過するのは殆ど自国民の筈なのに、防弾チョッキを着け、物々しく銃を構えているのが何とも不自然である。一時間程走ったところでパンクしたワゴン車を見つけ停車すると、乗り込んできた男性が、我々日本人を見て「ようこそご無事で!」と日本語で言う。手助け出来ぬ我々は「どうぞご無事で」とその場を立ち去った。 こうして何か所か「スクラップの山とスラム化した部落」を通過して、四時半に無事ポロナイスクに戻ると、宿舎の前で七人の少年少女達が遊んでいる。自転車に乗っている、小学高学年とおぼしき三人のうちの一人に若いK氏が手を付けなかった弁当袋を手渡した。私は他の少年達の反応が気になったが、貰った少年は素直に喜び、他の少年達が催促しなかったので一安心、それどころか「ヤポンスキ」と言いながら笑顔で手を振るので救われた思いがした。アジアではこうはいかない。

『近寄ってきた子供達』


 午後七時から昨夜と同じディスコ「KAФE・CЛABЯHKA」で夕食を取ったのだが時間が早いので店内はガラガラ、ロシア娘達が出勤中であった。昨夜は、車の警備で一緒に食事が出来なかったサーシャ氏とローマン君が同席したので、二人は我々からの質問責めにあった。サーシャ氏はウラル山地の東側からこの地に移住、一九七六年から九六年まで、化学工場の取締役だったそうだが、退職(理由は不明)後は車を九台購入し、運転手を九人雇って運送業を始めたのだという。手首に数珠を巻いていて、皆さんの安全のためだと言った。今回のコースは運転手としての手取りは250US$、時給は10US$だという。現在四十七歳だという割には更けて見えたが、半袖半ズボンで頑張っているのだから若いのだろう。娘が三人いて、一人は稚内に住んでいるという。
 ローマン君はポロナイスク出身で、母親を残して単身ユジノサハリンスクの大学で勉強中だから、昨晩から久々に親元に帰って寝泊まりしている。食事の中程で、ツアー参加メンバーの自己紹介が始まった。
 長野県から参加した八十歳になる酒造店主のK氏、東京の有名電気メーカー技師の若いK氏、福島の商事会社社員S氏、大阪で工務店を経営しているT氏夫妻、幼年学校出身で東京の公認会計士T氏、茨城の町役場助役N氏、東京の元大学教授M氏、北海道の元陸上自衛官M氏、今回のツアー会社取締役で戦史研究家のA氏、それに私という、強行軍に耐えられる比較的目的意識の強い「高齢者集団」であった。


 一時間ほど経った頃、地元出身のローマン君が「これは私からの贈り物です」と言い舞台の楽団に合図すると、ビートの効いた西洋音楽から一転してロシア民謡「モスクワ郊外の夕べ」に変わり、バンドマンが歌いだした。昨夜、私は彼に「ロシアに来てまでアメリカ音楽とはがっかりした。本場の『ロシア民謡』が聞きたかった」と言ったのだが、彼は覚えいてくれたらしい。その配慮に感謝しながら聴いたのだが、哀調を帯びたその調べがこの目で見てきたこの国の現実と重なり合って、ロシア民謡とは、良き指導者に恵まれないロシア民族の宿命を表す歌だ、という事を痛感した。八時四十五分、宿舎に戻るためバスに乗り込んだところ、昨夜もバスの側に来た小学生らしい一人の少年が近付いてきて何か話したそうに見ている。アジアの各地で、物乞いする子供達を見ているから躊躇したのだが、そんな雰囲気とはひと味違った気がしたから、ローマン君に「持参したボールペンをプレゼントしたい…」と尋ねると「いいです」という。そこで「しっかり勉強するように」という彼に教えて貰ったロシア語を呪文の様に唱えながら、バスの扉を開けて降り、T夫人からのクッキーと共に少年に手渡すと、少年は透通った綺麗な声で嬉しそうに「スパシーバ!」と答えた。少年の両肩を、薄紫色のジャンバーの上から掴んで、もう一度「勉強する様に」と言って別れたのだが、汚れのない青い瞳が一層哀れを誘った。物が溢れて感謝の念を失った日本のワルガキとは月とスッポンほどの差である。
 町には商店街や土産物屋があるわけでもなく、宿舎でシャワーも浴びられないので一同集会所に集まりウォッカを飲みながら「意見交換会」を開いたのだが、因みにウォッカの丸瓶は一本五〇p、バルチックという銘柄のビールは一瓶三〇pであった。(続く)