軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

八百長裁判にみる信頼性

大相撲の八百長事件で世間は大いに揺れている。八百長とは「前もって打ち合わせておいて、うわべだけ勝負を争うこと」である。
企業間では『談合』といい、政界でも『与野党協調=裏取引』しているし、事の大小はあれ、どの世界でもかなり“浸透”しているはずである。

私は若いころ剣道を少しばかりやったことがあるが、審判団に≪酒を配る≫チーム監督がいて、明らかな「誤審」でそのチームに敗れた経験がある。厳然とした『スポーツ界』でさえそんなもの、スケートで真央は泣いたし、柔道でもサッカー界にも大なり小なり“浸透”しているのは自明だし、金大中氏のノーベル賞だって臭いものだ。問題は、今回のように裏で「金銭取引」があるから、汚いものとして扱われる。暴力団と組んで、金銭取引するような力士の排除はいいとしても、なにも「日本文化=国技」まで廃止することはなかろう。


この件の批評は他にお任せするとして、今回の八百長事件で思い出すのは、平成19年、今回名が挙がった竹縄親方が、≪真剣勝負を旨とするプロスポーツ選手たる力士にとって社会的評価が傷つけられた≫として週刊現代を名誉棄損で訴えて最高裁までいったものの、週刊誌側が敗訴した事件である。

東京地裁はこの主張を認め、「記事には具体性があるが、取材はずさんだ」として出版元の講談社に4290万円の支払いを命じた。
2審の東京高裁でも「3960万円」の支払いを命じ、最高裁も上告を棄却、講談社竹縄親方豊桜にそれぞれ賠償金として22万円を支払って一応決着している。

しかし、今回の不祥事で力士側の主張が怪しく、講談社側の主張が真実だったことが判明したのだから、講談社は再審請求すべきだろう。


ところでこの裁判過程を見ていて“ずさん”なのは取材記者なのか裁判官か、どちらか「ずさん」というべきか、と私は言いたいのである。
原告側には辣腕弁護士が付いたのか、それとも相撲協会側と何らかの裏取引があったのか、3960万円の賠償命令が、報道では各被告に22万円だというから、これも八百長じゃないのか?といいたくなる。


それはさておき、私が執念深く追及している「雫石事件」の裁判も、これに勝るとも劣らないほど『ずさん』なものであった。そこでまとめた原稿の一部を紹介してみたい。


雫石事故とは、昭和46年7月30日に、岩手県雫石町上空で訓練中のF-86F戦闘機に、後方から接近した全日空のB−727機が追突して、乗員乗客162名がなくなった事故のことである。

常識を逸脱した反自衛隊報道と内部の出世争いが絡まって、追突された訓練生は「無罪」になったものの、下方の離れた位置で指導していた教官が「有罪」になった。


B-727の方が空自の臨時訓練空域内に侵入して追突したことは明らかだったのだが、ずさんな事故調査と過激な報道の影響で、裁判では一方的に自衛官が犯人にされ、いまだに不名誉な批判を浴びている。

なだしお事件も、今回のあたご事件もその延長線上にあるのだが、「あたご事件」では被告となった海自幹部が起訴事実を認めず真相を求めているので、裁判官がどう判断するか私は深い関心を持って見ている。そこで雫石事故の原稿の抜粋を転載しよう。


≪政府の事故調査委員会報告書は「少なくとも接触約7秒前から(前方を飛行しているF86Fを)視認していた」と推定していますが、二八〇〇〇フィートの高度に到達後のコックピット内の情況を推察する限り、事故調査委員達の無知というよりも、この推定は何か意図的に取り繕われた不自然なものとしかいえないでしょう。
従って裁判所の見解も、盛岡地裁は「視認していたか否かは明らかとはいえない」とし、仙台高裁は「接触7秒前に視認していたことは確実」と報告書を認定し、事実真理をしない最高裁は、「全日空機操縦者の見張り義務違反の有無にかかわらず」と逃げて隈被告の過失を肯定しています。
ところが民事法廷の東京地裁は「(全日空機長は)接触するまでまったく視認していなかった」と事故調査報告書を完全に否定したのです。しかし民事の東京高裁では「全く視認していなかったという可能性を推認するにはやはり躊躇せざるを得ない」としつつ、他方「視認していなかったのではないかの疑いも払拭することは出来ない」と裁判官らしからぬ、言い回しで逃げたのです。

≪事故の経過を再現する当時の読売新聞記事≫

この時の裁判長は、立川共生(たつかわともいき)裁判官でした。判決の翌日、昭和五〇年三月一二日の読売新聞【人間登場】欄で、記者の質問(…)に答える形式で次のように語っています。

《・・・この事件は隈、市川両被告の過失による事故という形で決着がついた。
「両被告は航空法違反と業務上過失致死で起訴された。検察側のその妥当性を問うのが、この裁判だったわけです。だから、焦点は両被告の過失の有無にあるので、自衛隊が合憲か違憲かというのは見当違い」
・・・三二回に及んだこの公判で、問う側も、裁く側も、ともに“大きな忘れ物”をしてきたのではないか、という問いに対する答え。
「そうでしょう。自衛隊員といえども、基本的人権はあるんで、自衛隊という組織を裁く裁判ではないんです」
・・・それにしても、市川被告の教官が隈被告であり、隈被告は航空自衛隊が設定した訓練空域を飛行していた――
それは検察側に聞いてください。ただ、それでいくと、ある事件の犯人に罪があるのは生んだ親のせいだ、ということになってしまう。どこかで線を引かなければ
・・・最後に信頼しうるのは人間の注意力――と判決にある。判決後の記者会見でも、裁判長は「最後は人間」と断定した。結局のところ、この判決は何も解決しなかったのでは?
その通り。それが裁判というものです。ある一側面しか解決しない。けれどもワイマール憲法下でも、司法が結局はナチスに協力していったように、司法だけ先走るのは非常に危険なことなんです。その意味で、裁判官としての限界は心得ているつもり。ただ、限界の名のもとに安易に流れるのは、警戒しなければなりませんが――」
自衛隊側の、遺族に対する道義的責任は確かにあると思います。しかし、法律が社会のすべてではないので、判決にそこまで期待をかけるのは望ましいことではない
・・・初公判から三年余。“重荷”をひとまずおろして、いくぶん緊張がほぐれたのだろう。気持ちのいい裁判でしたか?という問いに、「フロに入るわけじゃあるまいし」とシャレを飛ばす余裕もある。
 科学裁判という側面についても、黒板を使い、「横軸がファクター、縦軸がポシビリティでしょう。この範囲が、合理的な疑いを超えた判断、つまりビヨンド・ザ・リーズナブル・ダウトです」と記者団を煙に巻いた。横文字が好きでもある。
 二十六年京都大学法学部入学、在学中に司法試験に合格。京都地裁判事補を振り出しに、釧路地裁東京地裁広島地裁を歴任。四十二年四月、同地裁判事となり、大阪地裁を経て四十六年三月から盛岡に。
 人間観察が深いという理由で司馬遼太郎を読み、スキー、スケート、テニスと、スポーツならば何でも手を出すが、「どれもうまくならない」。奇をてらうのをきらい、「平凡な人間」を自称する四十二歳。滋賀県大津市出身》


さて、ウイキリークスではないが、真実は時とともに浮き上がってくる。

法治国家における『法の番人』の質の低下?失礼、個別見解の羅列は由々しき問題。裁判で求めているもの、そしてその真因を追及する意欲、検察、弁護双方の意見をいかに正当に判断し公平に裁くか、これを逸脱するようでは、裁判官に信頼を置けなくなる。
いい裁判官にあたって“ラッキー!”、外れて“不運”という風潮が生じたら、裁判官の存在意義が失われる事になるだろう。まさに法治国の危機である。

何はともあれ、天の怒り地の怒りが噴出する前に“人間”が少しは真っ当になる必要があるのだが、エジプトのように暴動が起きないと「反省」しないのも人間なのだから救いようがないというべきか。

裁判官が日本を滅ぼす (新潮文庫)

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