軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

3・11体験記=其の3

京華時報」3月8日号によると、中国総参謀部は、国家測量部が尖閣に上陸して、島と周辺海域内の実測をする計画を支援することにし、その検討に入ったという。
李明徳国家測量局長は、昨年9月に測量機に尖閣を領空侵犯させた際、精密な空撮を行ったのでそれをもとに地図を作製中だと発言しているらしい。
中国ウォッチャーは、「日本がもたもたして島の警備をしていないことを掴んだ彼らは実際に行動に出て、自国領土に上陸して測量するのは当然の権利である、と世界に宣伝するだろう。なぜ自衛隊は早く進出して島を守らないのか?」と言った。


たまたま黄文雄氏の新著が届いたので、これをご紹介しておこうと思う。如何に付き合いにくい民族であるかが分かるだろう。

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今日は午後1時から靖国会館で兵法研究会。34年間の私のパイロット生活をお話しする。
続いて元部下の3・11体験記=其の3である。


9 偶然の着信
 ラジオからの情報に「ちょっと待て」と声に出してしまった。
JR仙石線は東名から野蒜にかけては内陸部に大きく入り込んでいる。海抜0m地帯は大塚−東名間である。列車が行方不明になるならこの区間に間違いない。
さらに「ちょっと待て!」長女が下校するときに使用する時間帯の列車ではないか。もし、学校に残ったとしても多賀城のコンビナートと長女の学校は目と鼻の先である。学校も火の海ではないのか。
 野蒜駅や野蒜小学校が被災するなら自宅は大丈夫か? 
いや、貞山堀があるから大丈夫だ。でも野蒜地区も貞山堀はある。
いや、自宅は周辺の家に比べて盛土して基礎も1m近く高い、だから大丈夫だ、などと根拠のない自問自答を繰り返す。


 そんな21時頃突然携帯電話が鳴った。妻の発信であった。
「家はもうダメ、車も流された。水が全然引かないから今帰ってきてもダメ、モモもいなくなっちゃたし。今頃・・・」で言葉が詰まる。我が家は平屋のため二階に逃げ込むことはできない。どんなときも気丈で、泣かされるのはいつも私の方で、妻が泣いたことは一度しか記憶にない。「鬼の目にも涙」と思考回路が全く違う回路を形成する。


 話を総合すると次女と一緒に近くの小学校3階の音楽室にすし詰め状態で避難している。長女はまだ帰ってきていないが、今日は部活ないので早く帰ると言っていた。「モモ」はうちで飼って5年目になる猫である。人間ではないが紛れもない家族の一員である。数年前病気で瀕死の状態のときは妻、長女、次女ともに涙で脱水症状になるのでではないか、と思うくらい泣いた。私が死んでもこんなには泣かないだろうと思った程であった。そうだ、妻が泣いたのはこの時以来である。


 そのすぐ後、今日誕生日の甥から電話が入った。「大丈夫、今どこ、何かできることある?」単身赴任の私に変わり私の家族を救助するため福島から向かっているという
私は長女がコンビナート付近の高校にいるかもしれないので助けてもらいたい、自宅はダメだから姪の家に避難させてもらいたいこと、妻と次女は大丈夫だと伝えてもらいたい旨懇願する。
甥は「モモは」、と痛いところを突いてくる。しばらく無言だった私に「わかった」と静かに返事をしてくれる。電話を切った後頼りになる甥だと感謝する。頼りにはなるが風貌は“不審者”に近い。
そんな不審者に対し学校は女子高生を引き渡してくれるだろうかと疑問に思う。
 今なら電波状態も運もいいのかもしれないと父の携帯電話に電話してみる。昭和生まれの“明治男”の父にとって携帯電話は全くの置物であり、持ち歩くこともなく常に埃をかぶっている。短縮ダイヤルで発信する。偶然に父が携帯電話を持っていて、偶然に電源が入っていて、着信に気付けば。その前に充電してあるだろうか。私が発信しても常に「おかけになった電話番号は電波の届かない・・・」になってしまう。「たのむ!」のあと発信音が鳴る。一時関門通過と思ったとき父が電話に出た。携帯電話を携帯電話として使用していることを褒めてやり、妻、次女が無事なことを伝え父母の安否確認をした結果、近所の小学校に避難しているとのことであった。長女のことは甥が偵察にいっていることを伝え電話を切った。


10 「一光」店員登場
 ラジオからの情報によると航空自衛隊松島基地は完全に水没、基地機能は全壊であるという。
JR仙石線東名−野蒜間の列車が以前行方不明であることなどが本当に起こっていることを認めざるを得ない。私は列車が大塚−東名間だろうとまだ疑っている。
 ガソリンスタンドの事務所には一応人影はあるが見て見ぬふりをしているようであった。もうすでにガソリンスタンドのロープにボンネットを差し込んで3時間以上が経過する。
22時頃、見るに見かねてか店員が出てきた。「どうしました?」と優しく声をかけてくれた。これまでの事情と電力が回復したらガソリンを補給しすぐに南下する旨を説明したが、宮城ナンバーを見てひどく疑う風ではなかった。
どこまで行くのか問われたので石巻まで行くことを伝えた。それを聞いてひどく驚いていた。店員は「石巻の隣の東松島市にうちの支店があって完全に水没したそうです。」
それを聞いた私はそういえば実家に帰る途中に「IKKO」の看板があることを思い出した。そこから自宅はさほど離れていないこと。長女の安否確認ができてないこと、最悪の場合行方不明の列車に乗っている可能性があることを告げた。
発電機や手動ポンプでガソリンを汲み上げることを哀願してみるが200Vの電力なのでここの発動発電機では無理なことを告げられた。
 店員は「とりあえず敷地内に移動してはいかがですか」といってロープを外してくれた。屋根のあるところに移動できたことは大変ありがたかった。何より「一光」の看板が倒れてくる心配から解放されたからだ。事務所内で休むことを勧められたが丁寧に辞退した。


11 再び「一光」店員登場
 それから、エンジンの始動・停止を繰り返し暖を取りつつ電力の回復を待つ。まんじりともしないが電力が回復しガソリンを補給すれば直ぐ走り始めなければならないし、目的地に着くのが目的ではなく目的地に着いてからが最大の任務であるため、少しでも睡眠をとろうと思うが寒さと焦燥感に駆られ眠るに眠れない。
そんな状態で一夜を明かし廻りが明るくなった7時頃店員が再び近づいてきた。
 ガソリンを汲み上げる手法が見つかったのかと淡い期待を持つ。しかし店員は全く期待を裏切ることを言い始めた。「発電所がダメになってるみたいなのであと1週間はかかるみたいですよ」
淡い期待が絶望に変わる。自宅はもちろん職場にさえも戻れない状態になった。私の絶望感を察した店員は「昨日からお客さん拝見していますが何も食べてないですよね。何もできませんがとりあえず食べてください」といってサンマの缶詰と煎餅と割り箸を渡してくれた。
サンマの缶詰はプルトップで缶切りの不要なもので箸さえあればとりあえず食べることはできる。
 缶詰はものすごく冷たく事務所にあった物ではなさそうであった。店員も店内のあらゆるところを探し、やっと見つけた物であろう。
今後電力の見通しが立たない状態で食料の調達もままならない中、他人の私に分け与えてくれるありがたさも相まって涙が出てきた。今現在食欲は全くなく食べる気力も失われているので最悪の状態になったら食べようとありがたく頂いた。   (続く)

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