軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

夫婦別姓問題と日本文化

夫婦別姓問題で、最高裁は「合憲」と判断した。
結婚すれば、当然夫の姓を名乗ることになることは、日本人としてなんら違和感はなかった。むしろ父と母の姓が並立していたら、子供としてはどっちを採用すればいいのか迷ったことだろう。
私の父は「佐藤」、母は「小野」だったが物心が着いた時、産湯をつかっている写真に「小野守」という札が写っていたので、母に理由を尋ねたことがあった。母は、笑いながら「母の母(祖母)の旧姓は佐藤であり小野に嫁いだ。父は母の実家の佐藤家の養子で(血縁はないのだが)戸籍上ではいとこ同士の結婚になるから、佐藤より小野を強調した」と言った。
父も笑って聞いていたし、そんなこともあるのかなあ?という程度の感覚だったが、たしかに「佐藤姓」は日本中に多すぎるので、小野の方が格好よかったかな〜と感じた程度だった。

母は関西で学びその後医学専門学校の生徒監をしていたから、多くの教え子たちから「小野先生」と呼ばれていたし、京都時代の習い事の免状にも「小野」と書かれていたから、「小野」という姓で母に届く手紙類にもさほどの違和感はなかったが、もちろん母は公式の届出には「佐藤」と記入していた。


融通無碍なのが日本人の特性でもあるから、必要ならばうまく使い分ければいいものを、戦後は特に[権利]を主張する傾向が強くなりすぎた感がする。
とりわけ日本男子よりも女子の方がすべての面で“強く”なり、戦闘機のりにも女性が進出するほど男子たる者の面影が消え失せつつあるから「仕方ない」のかもしれないが、2700年余の文化伝統を誇る日本国の「男の一人」としては、年はとってもいささか気にせざるを得ない。

尤も姓の制度は明治維新後に始まったらしいから、歴史的には浅いものかもしれないが、それでも1世紀以上もうまく調和していた制度だと思う。


今回、夫の姓で各種届け出をするのが不便なのか?気に食わないのか、原告の女性らは血気盛んに記者会見をしていた。

≪原告女性陣の記者会見風景:判決を受け会見する(左から)榊原富士子弁護団長、原告の塚本協子さん、小國香織さん=16日午後、東京都千代田区(大西史朗撮影)産経から≫


記事によると女性裁判官3人は「違憲」としたが、岡部喜代子裁判官は「妻の意思であっても、意思決定の過程で現実の不平等と力関係が作用している」と断じ、旧労働省時代仕事で旧姓を使っていた経緯がある桜井龍子裁判官と鬼丸かおる裁判官も同調した。
男性裁判官二人も賛同していて、木内道祥裁判官は「子の養育の責任と義務という点で、夫婦が同姓かどうかは関係ない」と批判し、山浦善樹裁判官は「人格的利益や夫婦間の実質的な平等の点で問題があると明確に意識された」とし「国会は正当な理由なく立法措置を怠った」と国は精神的苦痛に対する損害補償を認めるべきだとしたという(産経)。


航空工学が専門?の私には、法律“業界”の用語はなじめないが、この女性裁判官は、規定が結婚の自由を制約していて“憲法違反”であることを承知の上でご主人(これも旦那というべきか?)と結婚したのだろうか?
とすれば若かったころは「愛は憲法より強かった」のだろう。
それともその後に何らかの心境の変化か不具合でも生じたものか?

どうも私には、彼女らの意見は、生まれてくる子供らの将来を無視した、自己中心主義的論議のように聞こえてならない。子供よりも親の方が“原則的には”早くこの世から去るものだから、残された子供の方が苦労することになる。


昔、子供らによく「パパとママのどっちが好き?」と意地悪な質問をしたものだが、子供らは幼児なりに「巧みに話題をそらした」ので、家内と感心したことがある。子供は分かっているのだ。
にもかかわらず、親の都合で「長男には夫の」「次男には妻の」姓を強要したら、どんな子供に育ったことだろう?と気がかりになる。


私は退職金第一号で両親の墓を建立し、自分も勿論入ることにしているが、都内に求められなかったため、遠く両親の故郷に建立せざるを得なかった。
しかし今では家内共々、年に数回墓参りと温泉旅行を楽しんでいるが、これもご先祖様のおかげだ、と家内は喜んでいる。
多分、後から私の傍に“入ってくる気”なのだろうとみているのだが?!

もし夫婦別姓だったら子供らは墓参りに来てくれるかしらん?などとも考える。そのうちに無縁仏になって整地されることになる?のかもしれない。


記事には「自分の名前で死ねずつらい」と訴訟の原告らが記者会見で語ったとある。


夫婦別姓訴訟の原告、塚本協子さん(80)は「合憲判決を聞き、涙が止まらなかった。(戸籍上は別の姓のため)自分の名前で死ぬこともできなくなった。これから自分で生きる方向を見つけなければならず、つらい」と声を震わせた。

原告の30代女性、吉井美奈子さんは「判決は残念だったが、訴訟を通じて夫婦別姓問題の社会的な理解が進んだことはよかったと思う。今後は世論に訴え、規定撤廃への機運を高めていきたい」などと話した。

一方、再婚禁止期間規定の100日を超える部分は違憲と判断されたことを受け、原告側代理人の作花(さっか)知志弁護士は「速やかな法改正を国会に期待したい」と話した。その上で「最高裁の判断根拠は、規定が作られた明治時代より現代は科学・医療技術が発達したということ。その趣旨に照らせば、『妊娠していない』と医師に診断された女性については、離婚から100日以内であっても再婚を認めるべきだ」とし、行政面での柔軟な運用も訴えた≫


「自分の名前で死ねないことがつらい」とは私には全く理解できないが、日本においては死ねば「戒名」という新しい名前が僧侶によって授けられることを知らないようだ。
そんなに、結婚前に育てを受けた両親の姓が、自分が選んだ?夫の姓よりも尊いのなら、俗名が記入されない戒名だけを書いてもらうか、旧姓を基にした戒名が与えられる教えに従って墓に入るしかないのじゃないか?


結婚するときに夫の人柄よりも、もっと“慎重に”「相手の姓」を分析検討するべきだった!ろうとお気の毒になる。
こうなると「佐藤」などというありふれた姓の私に嫁いでくれた家内に改めて感謝したい!! 姓よりも私を選んでくれた!という実感がわくから…。


ところで「結婚とは何か?」という面白い記事をネット上で見つけたからその一部を紹介しておこう。


≪「結婚とは何か?」について以下の3点、いずれかの観点から解説してください。 1、社会制度 2、男女間の愛情 3、家族の問題≫
という問題提起である。そしてその回答が面白い。


●結婚とは?
○男女間の愛情
お金があっても愛情がなければ意味がない。結婚とはそもそもいっしょにいたいと思える男女がするものである。もちろん子孫繁栄の手段の一つではあるが、それは一つの理由に過ぎない。根源的な結婚理由は二人の愛情である。
(出題者の感想:ただ一緒にいるだけではだめですか?)


○家族というものの価値観の維持。
○この世に性がある限り、多少なりとも沸くもの。
○所詮他人なのだから、、、


○社会制度の観点から言うと、
結婚という制度は、後戻りできないような工夫が何重にも凝らされている。

結婚をするためには、いろいろな儀式が必要だ。
結納、仲人、高価な指輪やドレス、
式場、披露宴、料理、
役所での手続き、これらを乗り越えてしまうと、二度と後戻りはできない。

結婚相手を探すのに、慎重になりすぎることはない。
理性を働かせて、よく相手を見極めて結婚すべきである。
しかし、恋愛は本能であり、判断能力を著しく低下させるものである。
恋愛による間違った判断によって、人間は結婚するのかもしれない。

(出題者の感想:理性が働いているうちは、結婚できないのかもしれない…)


なるほど、これらの意見から見ると、理性が勝っている方々にとって、結婚とは実態ではなく「理性」あるいは言葉遊び?(失礼)なのかもしれない…


最後に夫婦別姓問題については、こんな記事もあった。
「タイやドイツ、義務付け撤廃も『子供迷う』『8割の女性は夫姓』」


≪外国では、タイやドイツのように、結婚後に同姓を義務付けていた制度を撤廃し、姓の選択を自由化した例もある。
タイでは結婚後に妻が夫の姓に変えることが義務化されていた。男女平等に反するとした憲法裁判所の違憲判断を受けて2005年、夫か妻いずれかの姓にする選択に加え、夫婦がそれぞれ結婚前の姓を名乗れるよう法律を改正した。夫婦の姓を並べる「結合姓」も可能になった。
夫の姓を選んだ女性医師(31)は「一家に二つの姓があると、子供がどちらの家族に属するのか迷うと思った」と話す。

ドイツは連邦憲法裁の決定を機に1994年から選択的別姓が認められた。それまでは夫婦で一つの姓を選ばなければならず、合意できない場合は夫の姓が自動的に採用されていた。
 結合姓も制度変更前から認められているが、ドイツのメディアによると、今も8割程度の女性が夫の姓を選択。メルケル首相は前夫の姓で、現在の夫とは別姓だ。(共同)≫


ちなみに友人の一人は「別姓に賛成する女性らや国会議員らの名前を見ていると、夫婦別姓に賛成している方々は、もともと“それ”に慣れ親しんでいて違和感を感じない生き方をしてきた方々が多いよ」と言っている。


何はともあれ、なんとなく「日本の文化伝統」を破壊しようというたくらみの一つに見えてならないのだが…

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