軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

資料から:軍事力なき外交は無意味

昨日は、北洋漁業保護に関する過去の歴史の一部を、生々しい体験記から紹介したが、これらの記録は、海上自衛隊大湊総監部に付属する資料室にある。

その中に「大湊警備府沿革史――北海の守り――」と言う記録があり、中に飛内進氏が編纂した「日本海軍の北洋漁業保護の方針」と言う記録もある。

たとえば北洋警備出動状況と言う表には駆逐艦「春風」「旗風」「松風」「朝風」4隻の月別行動表も含まれる。

興味のある方はご一読あれ。これはその中の一部である。

 

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今日は海上行動ばかりではなく、空中活動の興味ある記録も紹介しておこう。

「海軍飛行艇の戦記と記録」(横浜海軍航空隊・浜空会編…昭和五十一年発行・非売品)に、田村栄次飛行隊長の手記が出ている。

 

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 次に掲げる田村氏の文は、当時の浜空の大型飛行艇による「航法訓練」が、日ソ漁業交渉を旨く妥結に導いたという点で特筆したものである。

 戦後の日ソ漁業交渉や日中間の各種外交交渉を見ていると、一方的に押しまくられていて憤慨に堪えないが、ここには「政治の延長としての軍事力(クラウゼヴィッツ)」の活用状況が生き生きと語られていて痛快である。

 

 やはりこの様な“準軍事行動”を発案できるのは、今の外交官が主導する情報活動などでは無理だろう。

 それは、現代外交官の外交上の切り札は、ある大使経験者に直接聞いたところによると①経済力(ODAなど)、②日米安全保障条約だそうで、自国の「軍事力」たる「自衛隊」は、全く考慮していない(出来ない?)そうだから、一方的に押しまくられて、その度に「国民の税金をむしり取られ」ているのは、蓋し当然だと言える。

 青林堂から上梓した「ある駐米海軍武官の回想」に義父・寺井義守中佐が、常々「外交と防衛」「文民と軍人」の関係は、車の両輪の様でなければならない、と語っていたが、「軍事力」が正当に位置付けられていない現代日本において、所詮無理な発想だろう。

 

田村飛行隊長のこの一文を、政治家や官僚達に是非読んで貰いたい、と思って再度掲載する。

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「デモンストレーション飛行」

筆者「長谷川(旧姓田村)栄次氏」が横浜航空隊の飛行隊長として勤務していた時であった。昭和十四年の一月末だったと記憶する。飛行艇の耐寒訓練をする事になり、大艇四機と共に急に大湊に進出させられた。ところがここに面白い指令がついていた。

それは「各種の耐寒訓練を実施すると同時に航法訓練を頻繁に行え。しかもそのコースは必ず小樽上空を南から北に向けて飛べ。高度も千メートル以下が望ましい。

北から南へ帰る時は小樽の上空を避けて、遥か洋上を飛ぶか、或いは北海道を一周しても良い」等と妙な制限付きである。

この指令は分隊長以上にのみ申し渡されたので、一般搭乗員はその予定されたコースを訓練飛行すれば良いだけである。従って、時には北海道を一周したり、筆者も樺太の国境付近まで飛んだ事もあった。

問題はこの「小樽上空の飛行」であった。

何ぞ知らん、当時は日ソ漁業交渉問題で両国の意見が纏まらず、新聞は毎日の様にその険悪な状況を報じていた時であった。

そうしてこの訓練も一週間で終わり横浜に帰ったが、同時に右の交渉も漸く妥協に落ち着いたと新聞に報ぜられた。

その直後、海軍省の情報関係者から「浜空の小樽北上飛行は相当効果があった様だ」と聞いた。それは何故か?

 

関係者に聞いた話によると、当時、小樽・札幌方面には、ソ連の情報探知者(レポ)と思われる者が相当多く入り込んでいて、現地の情報を刻々ソ連に通信していた。

その中に、「日本の大型飛行艇が盛んに北上している。もし交渉が決裂した場合、何かに備えているのだろう」という意味の事を打電しているのを傍受したという事で、この行動がどの程度まで効果があったかは具体的には分からないが、心理的には相当効果を認めたという。思わぬところに伏兵がいるもので、デモンストレーションとか謀略とかは、普通の常識では考えられぬところに存在する様だ】

 

外交交渉には、軍事力の裏付けが必要だ、と言う実例である。