軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

創設150年を迎えた靖国神社

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13日の靖国神社共同通信社

 

終戦の日を迎える2日前の13日に、共同通信が「靖国神社が昨秋、当時の天皇陛下(現上皇さま)に2019年の神社創立150年に合わせた参拝を求める極めて異例の『行幸請願』を宮内庁に行い、断られていたこと」が取材で分かった。「靖国側は再要請しない方針で、天皇が参拝した創立50年、100年に続く節目での参拝は行われず、不参拝がさらに続く見通しだ。

 天皇の参拝は創立から50年ごとの節目以外でも行われていたが、1975年の昭和天皇が最後。78年のA級戦犯合祀が「不参拝」の契機となったことが側近のメモなどで明らかになっている」と報じた。

 

他方、朝日新聞デジタルは、【太平洋戦争の激戦地・パプアニューギニアで1944(昭和19)年2月に亡くなった愛知県清須市(旧新川町)出身の深見正雄さん(当時21)のものとみられる日章旗が13日、遺族の手に戻った】事を報じ、弟の利市さん(79)は「お盆に帰ってきてくれた。仏壇の両親に報告します」と語った。

愛知県遺族連合会(名古屋市)によると日章旗は【米アリゾナ州の人物がインターネットで入手。正雄さんの名前が大書され、故郷の人と思われる多くの名前も寄せ書きのように書かれており、(略)遺族を探した結果、利市さんらに行き当たり、・・・清須市役所で永田純夫市長の立ち会いのもと、利市さんや弟の正光さん(74)らに手渡された】

【利市さんは「母は寂しがり、ラバウルから帰還した元兵士たちに兄が亡くなった状況を聞いて回っていた。顔を撃たれたらしいが、あまり分からなかったようだ」と振り返る。遺骨や遺品はなく、死亡の連絡のほかは、現地のものらしい一握りの砂が届いただけだったという。

 戦争で、長男の正雄さんだけでなく、次男も亡くなったという。利市さんは「戦争で息子2人を亡くし、両親は、私たちを食べさせるために高齢になっても働いていた。難儀だったと思う。何と言っても戦争はダメだ。若い人がみんな死んでしまうんだ」と話した。】

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朝日新聞社 「深見正雄君」と書かれた日章旗を手にする(左から)弟の正光さんと利市さん、永田純夫・清須市長=愛知県清須市役所

 

帝国海軍の特攻の鏑矢として散華した関行男大尉は、郷里に母を残して米空母に突入したので、終戦までは『軍国の母』として母上も讃えられたものの、戦後は環境が一変し、草餅の行商で食いつないでいたという。

その後地元の石鎚村中学校の用務員に採用され、用務員室で暮らすようになり、子供らに慕われていたが、昭和28年11月9日に誰にも看取られることなく用務員室で息を引き取った。享年57歳であった。

母を遺して先に逝った行男大尉の心中はいかばかりであったろうか。私なら、三途の川を泳いで戻り、母をこんな目に合わせた連中に、必ず“仕返し”をしたであろう。

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大戦果を伝える朝日新聞

 

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軍神・関行男大尉の母

 

昭和37年、令和天皇の祖父、昭和天皇は「遺族の上を思いて」とする「忘れめや、戦の庭に倒れしは、暮らし支えし をのこなりしを」と言う御製を詠まれた。

 

現陛下は祖父の遺志を継ぐおつもりなのか?それとも憲法の言うがままに“政治的理由”で動く“君側の奸”たる役人の指図に従われるのだろうか?

 

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突入する特攻機

 

日本列島に接近しつつある大型台風10号は、英霊のことより、周辺の言いがかりを気にして参拝もしない、臆病な政治家や役人たちに振り回されている靖国の杜の様子を伺っているような気がしてならない・・・

明日は大荒れになるような気がする…