軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

ウクライナに見る”絶望的な運命”との戦い!

 前回紹介した野口健氏はコラムに「ロシアに支配されたら絶望的な運命のみが待ち構えているということを彼らは過去の体験から体に刻まれるほど理解している」と書いた。

 

そこで今回は私のつたない“体験談”を書いておきたい。

 平成13年6月、生まれ故郷である樺太を訪問した私は、次のように所感を書いている。

「手書きの地図を頼りに、私が生まれた高田産科病院跡を訪ねるため、夕食後ホテルを出て、レーニン通りに沿って少し歩くと売店があったので覗いてみた。棚の大半は酒類で、日用品が僅かに並んでいたが、残った一〇〇ルーブルを使いきる必要があるのでマダムに棚の‟ウォッカ”を見せて貰うと、彼女はサハリン産の大瓶を推薦し、モスクワ製の小瓶は見向きもしない。そこに男性が一人入って来て私の手元の大瓶を見るや『サハリン、グー』と右手の親指を上にあげ、次にモスクワ製の小瓶を指して『モスコー、バッド』と思い切り親指を下に下げた。マダムと同じくモスクワ製(クレムリン)は嫌いだ!と言うのである。

 極東の僻地に押し込められ、中央政府から見捨てられたサハリン洲民(棄民)達の本心を見た気がした。本当は荷物になるから小瓶の方が欲しかったのだが、大瓶二本を購入して薄暗くなった歩道を歩いていると、偶然‟彼‟と擦れ違った。自分が推薦したサハリン産のウォッカを手にしている私を見て彼・ワシリー氏は、再び『サハリン・グー、モスコー・バッド』と大声で叫び、路上でロシア語と英語のちゃんぽんで一方的に喋るのだが、ソルジェニツインやペレストロイカラーゲリ等の言葉が頻繁に出て来るところから察すると、要するに中央政府に大層不満を持っているらしい。ロシア語が理解出来れば思わぬ情報が得られたに違いない、と残念だった。」

「ホテル・サハリンサッポロ前のレーニン通りは人影が疎らで車の通行量も少ない。住民の服装が黒、または灰色系統が多いからか、雨雲とも重なって暗い雰囲気が充満している。ロシア人の大人達には活気がなく、何よりも青年たちの『希望のない目付き』が気になった。」

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北緯50度・国境に立つ父(父の日記=手書きから)

 第2回目の訪問は、平成15年10月で、四日間かけて島を強行縦断しただけだが、その印象も『ただただ貧しい!』の一語に尽きる。

「共産政権八〇年弱の実験は大失敗で、ソ連が二十世紀における諸悪の根源、人類の敵だった事は間違いない。少なくとも自国民の人権を無視し続けただけでもその罪は万死に値すると思う。市内には前回よリも中国人が目立ったが、主として畑を借りて農業に従事していて、中国人バザールが増えた由。しかし中国人犯罪目立たない理由はロシア人の方が遥かに凶暴だからという。やはり‟強いもの”には手が出せないのだ」

オホーツク海に沿った南部の富内部落跡を通って海岸に出ると、オホーツク海向かって建設されたトーチカ陣地が並んでいたが、このちゃちなトーチカ群は「日本の攻撃」に備えた物だと言い、「なんで自衛隊攻めて来てくれなかったのですか?」と聞かれて絶句した。近くを散策すると、旧日本の小学校跡に「表忠」と書かれた大きな石塔が建っていた」

「現在、サハリン州に住む『大陸に捨てられたロシア人達』が、人情に厚い日本人に寄せる‟願望”には、我々の想像以上のものがあるように思われる。私の父達の樺太時代には、ロシア人集落が各所に残っていてごく自然にロシア人と共存共栄していたようだが、これからもそれができないとは思われない。それには、政治家と外交官達が、明治時代の元勲達のように毅然とした対応が取れる、勇気ある教養人である事が最優先だろう」と所見に書いている。

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南樺太全図(父が踏破した記録=手書きの日記から)

いずれにせよ、ロシア人に支配されたら「絶望的な運命のみが待ち構えている」ということを知っているウクライナ国民は、頑強にロシア軍に抵抗しているのであろうが、よく理解できる。

「上面だけの平和主義」では理解できないものである。