軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

「虚報」の裏話

 昨日はチャンネル桜の収録を終えて、大雨の中を帰宅した。山手線は不通だったらしく、私鉄各線は大混雑で、ドアに押し付けられて身動きできず、猛烈な熱気と湿気の中を20分間耐えて、都心を離れて漸く一息ついた。異常事態とはいえ、これが都心の通勤の実態、差別の象徴?だと思っていた「女性専用車」の価値を認めざるをえなかった。

 さて、川内=森、両氏の諍いは解決出来ていないようだが、三沢での体験談(その2)を再び転載しておきたい。
 昨日の私の文に、コメントをくれたのが元三沢基地の整備員で、F−16墜落事故の時に、私が下令した非常呼集で「庁舎前に集合していたこと」「翌日の新聞記事に驚いた」と当時の思い出話を語ってくれていた。そこで私が彼に書いた返信をここに再び転記することにした。新聞の“虚報”から生じた日米関係危機一髪?の裏話である。

[○○君。F−16墜落の時の対処要員でしたか!お疲れ様でした。
 あの日は夜間飛行準備中で、情報を得てすぐにWOC(航空団の指揮所)を開設したのですが、F−16が何時、どこで、どのように墜落したのかさっぱり情報がありませんでしたから、副司令を管制塔に派遣して調査させたのです。目撃した管制官が通報してきたのですが、タッチアンド・ゴー(連続離着陸訓練)で上昇中のF−16のアフターバーナーが火災を起こし、そのまま基地内に墜落、一時炎が出たがそのまま消滅したので場所の特定が出来ない、とのことでした。基地の外だった場合に備えて、火災対策など災害派遣準備を下令していたのですが、とにかく現場が分からない。そこで米軍のレイサム司令官を呼び出すと「機体は基地内に落下し、パイロットは脱出して無事だから、御心配無用」とのことで、非常呼集で集合させた隊員を解散させたのでしたが、翌日の朝日新聞はじめ地方紙を見て驚きました。
 大きな見出しで『天を焦がす真っ赤な火柱』『地軸を揺るがす大音響』と出ていたのです。しかもご丁寧に小川原湖畔でキャンプしていた青年達を使い、現場?を指差している写真や、タクシー運転手に、外柵く近くの山芋畑に落ちていた破片を指差させた、今流行の『ヤラセ写真』を掲載するという念の入れようでした。
 実際は、基地内の自衛隊員も、市内の市民の誰も事故に気がつかない程の事故だったのですが、基地外柵にいつも待機している市役所の基地対策課員が、一瞬出た火柱を見つけて問い合わせてきたらしく、それで事が大きくなったようです。
 翌日新聞を見た市民から「昨日、事故があったのですか?」と問い合わせがあったほど、全く市民は知らなかったのが実情でしたが、新聞は市長を焚き付けました。たまたま市長は三沢市との友好姉妹都市である米国の町を訪問のため渡米中でしたから、彼の手元に届く資料の殆どが「新聞のコピー」でしたから、新聞情報しか持たない市長は帰国後米軍を呼びつけて怒りをあらわにしました。勿論、そのシーンをわがマスコミ、特にテレビが大々的に伝えました。ところが米軍は『ウエルダン(良好な処置)』だと認識していたため、怒り狂う市長に不信感を抱き、日米間で大きな問題になりました。防衛庁は勿論、施設庁、外務省までが出てくるという大問題に発展、新聞や左翼勢力?は日米安保条約上の重大問題だというわけで米軍を非難するのです。たまたま外務省の担当者を私はよく知っていたので彼に詳しく状況を解説しましたから、外務省の高官は手を引いた筈です。
 しかし、今度は米軍が怒りだしました。第5空軍司令部と在日米軍司令部はほぼ同一ですから、太平洋空軍、ペンタゴンと伝わって日本政府に怒りをぶっつける寸前までいったのですが、外務省の担当部課の説明で、一応『和解』しました。
 しかし、現地三沢では、米軍の態度は硬化し、日米友好祭という三沢市特有の催しには『キャンセル(米軍不参加)』の決定がされたのです。そこで私は米軍基地司令官にお祭り開始の際の『テープカット』だけでも出てくるように言ったのですが、上層部からの指示で不可能だというのです。それほど彼らは怒り狂っていたのです。そこで『司令がだめなら、副司令を出すように』説得したところ、横田の司令官が特別に許可してくれて、副司令が代理で出てきて一応テープカットだけはしましたが、終わるとすぐに基地に戻ってしまいました。町に出てきた米軍家族達も、何と無く居心地が悪そうで、折角のお祭りが気分の悪いものになってしまいました。君も、あの日アーケード街を散歩しましたか?テープカット終了後、私は三沢名物の「ミス・ビードル号」という太平洋横断を成し遂げた飛行機の模型に乗って、タイムを競い合うという競技の鏑矢を勤めたのですが、米軍代表が帰ってしまったため、代役の助役とともに乗ってロープを引っ張るとき足が雨で滑ってぎっくり腰になってしまいその後大変苦労しました。日米友好を『裏で支える』のも大変なことです。そんなことはマスコミには一切関係ないことですから、全く報道されないのですが、後で事実を知った市長はこっそり私に『司令さん、今回は参ったョ』と言ったものです。実はそのとき、私から事故の状況説明を受けて知った川内康範先生が、誤報で日米関係が壊れては一大事だ、と間で重要な役割をしてくれたのです。
 そんな新聞記事を片手に国会で質問する議員がいますが、あれは私のような『評論家』がやることでしょう!!]