軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

『樺太(サハリン)紀行(2)』

   ……六〇年ぶりの里帰り(2001年6月)

 父の日記によると、一漁村にすぎなかった知取の町は、製紙会社の進出に伴うパルプ工場新設など一大開発が推進され、一万人を越える労働者や各種業者が入り込み大繁盛していたが、大正十四年七月の大火で焼失したため郵便業務が大混乱、樺太庁逓信課では十数名の応援を差し出して約三週間事務処理を実施する。父も派遣された一人で大奮闘、「整理が終わって一段落、ほっとした状態」という添え書きのある集合写真と、復興後の「知取市街全景」という絵葉書が添付された日記に当時の様子が詳細に記録されているが、今やその頃とは比較にならぬ程活気がない。
 九時二十分、サーシャ氏が車内に明かりを点けたが外はまだ薄暮である。日本統治時代に作られた石橋を通過し、父の記録では「新(にい)問(とい)」かと思われる小さな集落に入る。灯に蛍光灯が見当たらないので薄いレースのカーテン越しに室内を見るとシャンデリアの様な古い電灯である。
 アパート群の空き地では子供達が四〜五人遊んでいたが、この町は人口が激減したらしく、薄暗がりの中で海岸に打ち寄せるオホーツク海の大波が不気味でさえある。真冬には一体どんな風景になるのだろう。
 十時すぎに日が暮れて漸く辺りは暗くなったが、まだ空は白んでいて稜線がシルエット状に見えている。やがて前方に珍しく纏まった明かりが見えてきたがそこは火力発電所であった。明るい発電所とは対照的に真っ暗な集落を通過したが、無人なのか、それとも就寝して既に消灯したのだろうか?。
 一一時すぎに漸くポロナイスク(敷香)市内に入った。規格統一された様な、代わり映えのしないコンクリートブロック製のアパート群が続くが珍しく蛍光灯の光と、街路樹の白い花々が我々を迎えてくれた。深夜なのに歩道を人が歩いていて、何となく生活感があったが、この町の人口は約二万五千人、北海道北見市姉妹都市だという。
 一一時半から〇時半まで、この町一番だというレストランで遅い夕食を摂ったが、教室ほどの細長いフロアーでは、楽団の演奏に合わせて若者から中年の婦人達までが「ツィスト」を楽しんでいる。要するにここは「ディスコ」なのである。すると若い女性が一人我々のテーブルに近付いて来て「英語が喋れるか?」と聞く。彼女は「私は昔厚木にいた」と得意になって流暢な英語を喋り始めた。誰かが「女KGBだ!」と囁く。冷えていないビールで乾杯したが、大音響のアメリカ音楽に合わせて身をくねらせて踊りまくる「ロシア人達」を眺めながら、私は間違いなく「アメリカがソ連に勝った!」事を確認した。
 この町にはホテルがなく、宿舎は製紙工場付属の宿泊施設だそうで、気位の高いマダムが部屋の鍵を渡してくれたが、バスルームとは名ばかりでバスタブもシャワーヘッドもなく、冷水が出るだけのホースが一本床に転がっている。プラスチック製の安物の鏡がぶら下がっているその下に、便座が破損した便器があるだけで、歯ブラシや石鹸類は元より、トイレットペーパーさえない。コンクリートの上に壁紙を貼っただけの寝室のベッドの上には毛布と薄い布団が一枚、それにタオル一本がおいてあるだけの三人部屋で、出発に際する案内に「トイレットペーパーを各自持参して下さい」と書かれていたのは冗談ではなかった事を確認した。この宿舎には二晩お世話になったのだが、地元のロシア人が外套を着込んでいるほどの気温だったから、誰もシャワーを浴びる者はいなかった。


 翌九日はどんよりとした曇り空だったが、八時に起床して昨夜のレストランで調整された朝食を食べた。各自に配られたビニールの小袋の中には「玄米パンの様な白パンのサンドウィッチ(サラミソーセージと薄いチーズを乗せてサランラップで巻いたもの)、ミンチ肉が入った小さなパン、リンゴ、塩抜きの茹で卵、紙パックに入ったオレンジジュースがそれぞれ一個づつ」入っていて、この日の昼食(弁当)も、翌日の朝食も、リンゴがオレンジかトマトに、ジュースがリンゴジュースに代わっただけの同一メニューであったのには些か閉口した。
 車内でのおやつを、という意見が出て、近くの売店に入ったが、野菜、果物、缶詰、酒、日本製のおつまみ、煙草類が棚に並んでいるだけで、我国のどんな田舎のコンビニよりも規模は小さいかったからこの国の主婦達の苦労がよく理解出来、あんなにスタイルがいいロシア娘達が、年を取るにつれてまるで判を押した様に「相撲取り」の様に変化するのは、やり場のない「ストレス」が原因ではなかろうか、と思った。日本の女性人権活動家と称する人達に一度体験させたいものである。きっと彼女達はロシア政府に「勇気ある提言」をするに違いない。
 バスに乗車すると、後部座席に畳んだ毛布が積んである。サーシャ氏が盗難防止のため一晩中「銃」を抱いて寝ていたのだという。「宿舎では夜中にどんな事があっても、中から鍵を開けないで欲しい」と言ったガイド君の忠告が理解出来た。
 十時に旧国境の北緯五十度線を目指して出発したが、まるでインド大陸の奥地を走る様な茫漠たる風景が続く。そんな埃まみれで周囲に人家も見えない未舗装の道を歩いている人がいる。バケツを下げた老婆が一人道端に佇んでいたが、彼女はトラックから落ちた石炭を拾っているのだ、という。交通量は極めて少なく、時々トラックが走り去るだけである。一時間ほど北上した時、入植地らしい廃屋が数戸見え、ジープ二台と擦れ違った。やがて集落が見えたが、父の日記によると「保恵」ではなかろうか。
 川が流れ、犬と牛が遊んでいる。あちらこちらに車の残骸(フレーム)が、まるで砂漠で死んだ動物の死骸の様に転がっているが、事故車や故障車の成れの果てだという。その「見事なリサイクルぶり」に感心する。鬱蒼とした林の中で、薪拾いをしているらしい二人の婦人を見掛けたが、その姿はまるでミレーの名画「落ち穂拾い」の様であった。曇り空から薄日が差し始めた頃、廃屋の様な木造住宅が並ぶ集落の入り口の検問所に着いた。スミルヌィフ(旧気屯)村だという。防弾チョッキを付け手持ちぶさただったらしい若い警備兵が威張って検問を始める。昭和十三年に「日ソ郵便物交換」で父はこの地を訪れている。感慨無量であった。
 正午前に、更に旧国境に近い古屯村に入り、戦死者を祭る記念碑の下で小休止、再び北上すると、進行方向右手に鉄道が並行する無人の道端で老婆がパンを売っていた。一日待っていれば誰かが買ってくれるのかもしれないが、その忍耐力は日本人には絶対に真似出来ないだろう。日ソ友好記念碑が建つ周辺に、旧帝国陸軍のトーチカが残っていて、その左奥手が「幌見峠」である。北緯五十度を越えてしばし旧ソ連領内に入り、両軍が対峙した川に出る。日ソ不可侵条約を一方的に踏みにじって攻撃するというソ連軍の国際法違反を知っているからか、ローマン君の「説明」は口ごもりがちである。

 午後一時すぎに旧国境を示す記念碑まで戻り、車内で昼食の「弁当」を広げた。
 最後の日ソ郵便物交換状況を記した父の日記には「交換場所には三十分ほど前に到着、空はどんよりと曇っていたが穏やかな日和だ。…この頃は国境情勢がだいぶ厳しくなっていたので、樺太庁としても国境警備の万全を期するために、半田と本庁間に無線連絡の道を開くことになった。…この国境は丁度一か月前に、あの女優の岡田嘉子と杉本との恋の越境事件で日本中の新聞種になったので、部長はその当時の状況を敷香警察署長から現場で説明を受け、熱心に興味深げに聞いていた。勿論国境での撮影は厳禁されているが、部長も私も恐らくこの様な機会は再びないので日本側の見張り所(一人が入れるほどのボックス)の節穴から、二、三枚『パチリ』とシャッターを切らせて知らん顔をしていた。
…二百メートルほど前方には『ソ連軍』の監視台が見えている。正規軍がいるという話だ。まもなく前方雑木林の中から『ソ連』の馬橇が見えてきた。通訳の話では『ソ連』側の護衛は正規軍だとの事で、武装した軍人が五、六人来た。
 郵便交換責任者は北樺太『オノール』郵便局長との事であった。昭和十三年四月四日正午(日本時間)双方国境線を中心に(別に線が引いてあるわけではない。国境の東部、中部、西部にある大きな国境標を中心として、その中間各所に同じ形の小型の標が『ポツン』とならんでいるだけ)にして一列に整列し、私とオノール局長との間で郵便物の授受を済ませた後、部長と私が交互にオノール局長と握手を交わし、期間中のお礼を述べた。数分にして劇的交換の一幕も無事に終わった。後になって考えてみると、これで日ソ交換便が永久に終わったのだとは、神ならぬ身の知る由もなかった。…帰途は幸い雪も止み、又道もだいぶよくなったので、幌見峠を右に眺め雪の国境付近の風景を楽しみながら気屯部落に帰りつき、ここから三人で車に乗換え沿道の部落を次々と経過して上敷香まで来て小休止し、丁度ここが敷香方面と内路との分岐点になっているので敷香に直行した」とある。そして今私は、六三年前に父が立った記念すべき地点に立っていた。

 ↑引き上げるソ連側:『最後の日ソ郵便物交換風景』


 
 さて、北朝鮮情勢に関するニュースは今現在(1015)ない。米国の大統領選挙もいよいよ大詰め、パウエル元国務長官の『オバマ支持』が大きく影響しそうだという。
 経済危機も何のその、中国はパキスタンに原子炉などを提供、インドはこれを警戒、更に中国は南極内陸部に基地を設置するという。
 中国から帰った後輩から、食の安全は自ら確保するもの、普段から中国人は農薬除去対策と個人の衛生管理(容器を煮沸)は常識、人気食堂には行列ができていた!と報告があった。被害が大きいのは「無菌状態?」の日本人限定ということか!?

 中国国内情勢分析は門脇翁が継続中だから、新しい情報が入ったらご紹介予定。刻々と入る情報としては宮崎正弘氏のメルマガが実に面白い。ご紹介まで

絵で見る樺太史―昭和まで実在した島民40万の奥北海道 (JPS出版局)

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