軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

棺を覆いて事定まる

中曽根元首相が、101歳で死去された。氏は「戦後政治の総決算」を掲げて数々の行財政改革を推進したが、とりわけ外交において、日米同盟を当時のレーガン米大統領と「ロン・ヤス」と呼びあうほどの強固な関係を築いた。

 世界各国の首脳たちから哀悼の言葉が届いていると言うがさもありなん。

 今朝の産経抄子はこう書いた。

【海が荒れたとき、船をどう操るか。旧海軍に伝わる操舵の心得がある。「荒天のときは風に向かえ」。

 ▼先の大戦に海軍士官として出征した中曽根康弘氏にはその教えが刻まれていた。首相として初めて臨む組閣を前に「風に向かって立つという心境だ」と述べている。昭和57年晩秋の就任時、日米関係は安保をめぐり戦後最悪といわれた。訪米時の「不沈空母」発言は世論騒然の強風を招きながらも、日米の距離を縮めている。

 ▼時のレーガン大統領を東京・日の出町の山荘に招き、親密の度を加えた「ロン・ヤス」関係は日本を冷戦終結や核軍縮のキープレーヤーに押し上げもした。何が国益かを見極めた、慧眼ゆえの立ち回りだろう。その流れはいまの日米関係に引き継がれている。<なにもかも人生劇場秋陽没(い)る>。俳句の名手でもある中曽根氏が101歳で亡くなった。

 ▼毎年の手帳には「結縁、尊縁、随縁」と記した。縁は天からの贈り物(結縁)、生あるかぎり互いに縁を慈しみ(尊縁)、身勝手に切らない(随縁)-と。週末にはケネディの選挙戦略を描いた『大統領になる方法』を教材に読書会を開いた。招いた財界人、文化人が後の権力闘争の強い援軍となったのは言うまでもない。人も書も機縁に恵まれた。

 ▼世評にいう「風見鶏」の揶揄(やゆ)も柳に風だった。時流の変転を先読みし、機を見るに敏の行動力は、「戦後政治の総決算」として断行した国鉄民営化や行政改革の事績が物語る。「政治家は歴史法廷に立つ被告」との達観は、覚悟を示してすがすがしい。死してなお続くであろう中曽根政治への「歴史法廷」の裁きも本望に違いない。

 ▼ここ数日の東京は晩秋の澄んだ青空が続いた。風のない旅立ちに氏はどんな句をひねったろう】

 世に、「棺を覆いて事定まる」と言う言葉がある。国会議員現役時代は、変わり身が早いと言われ、「風見鶏」とか君子豹変すなどと揶揄されたが、「不沈空母」論を唱えるなど、一貫して日米同盟を重視してきた功績は大きい。

 

 私が防大に入校した年来校されて講演を聞いたことがあったが、海軍時代の思い出として「ガンルーム(士官室)内での士官たちは本を読まない」と批判したことが印象に強く残っている。「彼は内務省から海軍入りした主計中尉だったから実戦経験が少ないのだろう。艦上では本など読んでいる暇はないはずだから・・・」と”誤解しているのだろう”と解釈していた。

 浜松で戦闘機操縦教官をしていた1尉の頃、防衛庁長官として視察に来基された時、時の団司令に呼びつけられ、メインテーブルで長官に紹介されたことがあった。

その時団司令は「佐藤1尉は戦闘機教官だが絵画が趣味で自衛隊美術展にも入賞している」と言った。私は”ガンルーム・・・”の話を思い出し、団司令が意図的に言いだしたのか?」と一瞬思ったが、長官は「油絵か?どんな作品を出したのか?」と聞かれた。「”嫁ぐ日”と言う油の50号です」と答えると、「ああ、花嫁を描いた作品だな?。覚えているよ」とわざわざ握手された。長官が油絵同好者の「チャーチル会」メンバーであることは知っていて尊敬していたが、その時「若いのに老けている(髪が薄い)な!」と私を笑ったので、 “カツン!”と来た私は「長官も苦労されているようですね!てっぺんが結構薄くなってます!」とやり返すと、「ナニッ!」と手を離されたので、本気で気にされているな!(弱点か?)と直感したことを覚えている。

                   

f:id:satoumamoru:20191201214253j:plain

(右端で笑顔を見せている”ヘアスタイルが目立つ?”のが当時の私!)

その後首相になり、レーガン米大統領と親密な関係を築いたことは書いたが、退官後、近在にある「日の出山荘」を見学し、数々の展示品を見た時、首相時代受けた印象とは一味異なった氏の人間性を垣間見た気がした。

f:id:satoumamoru:20150920153656j:plain

日の出山荘

f:id:satoumamoru:20150920150559j:plain

日の出山荘の内部(一部)

 

しかし、氏の大きな負の負債は、靖国神社公式参拝問題が中国及びそれに加担する日本メディアなどの妨害に遭って、とん挫したことであったろう。だが、それを解決するのは後継者たる現在の首相はじめ現役国会議員の責務である。(少しは骨のある男がいることを信じたい…)

敗戦で曲げられた戦後時代の負の遺産の解決は完全解決とはならなかったが、それを解決するのは後継者の使命である。

しかしこれで「有事」を体験した首相は”絶滅した”。

“定年制”を持ち出して、“引導を渡したのはあの小泉元首相だったが、ぼけを自覚できない老人が増える現在、惜しい人物を追い出したものだ。"引導”を渡す時期”が早すぎたと悔やまれてならない…。

これでわが政界は、戦争=有事を実体験した世代が終焉し、“口だけ番町”がのさばる時代に凋落する「区切りの時期」を迎えたのである。

 混乱しつつある世界にどう対処できるか、非常に心もとなくなってきた。

 産経抄子は【「政治家は歴史法廷に立つ被告」との達観は、覚悟を示してすがすがしい。死してなお続くであろう中曽根政治への「歴史法廷」の裁きも本望に違いない】と弔辞を書いた。もって瞑すべし、だろう。

何をさておき101歳の天寿を全うされたことを寿ぎ、今後は天空から「日本民族が道を誤らぬよう」見守ってほしいと思う。   合掌