軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

13年目の3・11を迎えて

今日は、例の「3・11」から13年経った当日に当たる。今年は「1・1」能登半島地震に打ち消されて、記憶から遠のいていたが、13年前の私のブログを読み返して、当時を振り返ってみたい。

 当時は、自堕落だった自民党政府が、野党の「民主党」に政権を奪われていて、驚くべき“人材”が指揮を執るという、最も悲惨な時だったが、大方の国民はすでにその‟不幸”を忘れている。中には「現政権の乱れから」その復活?を期待しているというから、話にならない。尤もそれは、今の政府も当時と同様にあまりにもだらしなく、責任感が欠如しているからだろう。いい機会だから、私も“反省のために”13年前の記事を読み返してみようと思う。

 

【2011年3月10日の記事=大地震お見舞い】

 3月10日午後、戦略研究会に出席するため、平河町まで出かけたが、珍しく地下鉄の

中で「携帯」が入った。見ると石巻の神主さんからで、半蔵門出てから連絡すると、「司令さん、いよいよ始まりますよ〜。福島沖、群馬、新潟…、地震と大津波で大変なことになります。馬鹿なことばかりしているだらしない政府を早く変えないととんでもないことになる…」とのことだった。
 すでに昨年暮れの大祓の儀で聞いていたことだったから私は「それよりアフリカなどの暴動の方はどうなりますか?」と聞いた。
「旧世界は変化して、王政などが大きく転換する」とのことだったから、「いよいよ新しい時代の始まりですね〜」と言って電話を切った。

 そして11日午後、ブログを書き終えて書斎整理をしようと一服していた時に激しい揺れが襲ってきた。天井の電灯が激しく揺れ、テレビ棚の上の装飾品がガタガタ音を立て、数個床に落ちて破損した。
 揺れが一段落したので階下に降り、被害確認のため家を一周しウッドデッキに出ると、家内が丹精込めたバラの植木鉢3個が破損していただけで被害軽微。ガスは自動的に切れ、近代設備の有効性を確認したが、買い置きの水と懐中電灯を準備、居間に戻ってテレビを見ると既に被害情報で氾濫していた。
 地震予知連絡協議会や携帯電話などは、いざとなると頼るに足らず、と思っていたが、やはり有効に機能しなかった。

 自らの身は自ら守り、知恵を最大限に活用するのが生きるための鉄則これは墜落した際のパイロットのサバイバルの原点でもあるが、TV画面を見た限りでは、死者千人を超える大災害になる、と直感した。

 以前から私はこのことあるを予見し、政府のお遊びごとに愛想が尽きていたのだが、やはり現実にならないとわからないらしい。
 揺れを感じて初めて「経験がない」素人たちは右往左往、その中で3自衛隊が独自に活動を開始したのがせめてもの慰めだった。シビリアンコントロールが適切に機能したのかどうか?(以下省略)

 

 備えあれば憂いなし!は、いつの世にも通じる警告の句である。

 今では東北地方は、なんとなく通常に戻った感があるが、北陸地方は真っただ中にある。この時もそうだったが今も、「政府は国民の立場に立ってはいない」ようだ。

 これは‟お人好し日本人”の「宿命」なのかもしれない。

85歳を迎えリハビリ中の「一老兵」には、お役に立てないことが何とももどかしい。