軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

おふくろさん

 これは、仲間内だけの別のHPに書いた一文だが、今朝のテレビで、川内康範氏の「卑しい・・・」という言葉を使ったメモが紹介されていたので、フト転載する気になった。
 川内氏が言ったように、現代日本には(特に地上〔痴情?〕波テレビだが)「卑しい顔」が溢れている。勿論、年を重ねると人間老化して皮膚は緩み、しわやしみも出来て、とても若者達のような「ピチピチ」した健康体は維持できない。しかし、積み重ねてきた「年輪」だけは彼らには負けないはずである。
 昔軍隊では「年の数より飯の数」といわれたそうだが、年輪を積み重ねた結果が「卑しくては」様にならない。自分のことはさておき、無責任な一般論を言えば、確かに最近の日本人の顔から「気品」が消えうせ、「卑しさ」だけが感じ取れる。
 先日都心に出る電車で、私の隣に若くてきれいなOLか学生風の女性が座った。滅多にお目にかかれない“幸運?”なので、花粉症の鼻水を拭くことも出来ずに我慢?していたのだが、何と、彼女は座るや否やハンドバックからおにぎりを取り出してむしゃむしゃ食べ始めたのである!
 一瞬前の座席の老婦人は顔をしかめ、同世代の女性たちは本を読み出したのだが、彼女は全く気にしていない。よほどお腹がすいていたのか、ペットボトルのお茶をラッパ飲みしつつ新宿に着くまで3個平らげた。その頃には、彼女の堂々たる態度に私はむしろ“敬意”を表したくなったくらいであったが、日本人(この路線には留学生が多いから彼女がそうだったという確証はないのだが)の羞恥心の消滅は凄まじい。彼女がどんな人生をこれから送るのか知らないが、人間、年をとったら、年輪ともいうべき自分の顔に責任を持ちたいものである。
 そんなことから「卑しさ」という言葉を痛感していたのだが、たまたま川内氏が取り上げたから、川内先生の思い出話を転載する次第。
 今日は恒例?のチャンネル桜「防人の道。今日の自衛隊」の収録日。電車内で「卑しい顔」の乗客に遭わないように!と祈っている・・・


[ 森進一の『おふくろさん』が問題になっているという。私はテレビは朝食中に適度に見ているだけだが、『おふくろさん』問題でワイドショーは大賑わいである。大した関心もない話題に興味を引かれた理由は、実は川内康範先生には三沢の飛行群司令時代に何度もお会いしたので、大変懐かしかったからである。
 空幕広報室長時代に、JAL機が御巣鷹山に墜落して520人もの犠牲者を出す大惨事があったが、その時航空自衛隊はJALや関係機関から何の要請もない時点から自主的に捜索救難活動を開始した。しかし、4人の生存者が発見されたとたん、「救助が遅い、自衛隊は何をしていた!」「役立たず!」と一部のメディアから非難された。冗談じゃない。
 事実を知らせるべき部署にいた私は、彼らに説得をしたが効果はなかったので、たまたま取材を受けた「月曜評論」という小紙に反論を掲載した。
 これがやがて大きな話題になり、自衛隊を評価する意見が殺到しだしたのだが、批判された一部メディア関係者には面白くなかったらしい。そんなことがあった後、私は急に予想だにしなかった三沢に転勤させられた。
 実はもっと違うヒコウキとは関係ない場所に飛ばされる?予定だったらしいのだが、時の某司令官の采配でパイロットとしてかろうじて飛行部隊に途中下車ならぬ不時着出来たのであった。
 その時東京の雑誌関係の友人から電話があり、是非会いたいという方がいるので時間をとってほしいと頼まれた。そしてお会いしたのが川内先生である。
 この方面に暗い私には、せいぜい「月光仮面の作者」という記憶しかなかったのだが、私の部屋で向かい合った先生は真っ先に「A新聞記者と孤立無援の戦いをした理由」について質問した。私は「広報室長という役目上、でたらめな記事には当然反論すべきであり、取るものもとりあえず現場に駆けつけて、想像を絶する苦労をした多くの隊員達の苦労に報いるための私に取れる唯一の仕事だったからだ」と答えると、じっと私の目を見つめていた先生の目に、ほころび?が出来て「気に入ったから私の本を贈呈したい」と言って「田中角栄国賊か」という著者に署名して下さったのである。
 その後三沢に帰郷されるたびに電話があり、スクランブル待機所を案内したことがあったが、勤務中の若いパイロットたちや整備員達の姿に涙ぐまれ、「司令、まだこんなに綺麗な目をした青年達が、この日本に残っているとは思わなかった。実に嬉しい」と手を握られた。先生は感激家であった。古いよき時代の塊だったという印象を私は受けたものである。
 その後、私が基地司令として再赴任した時に、米軍機が事故を起こしたのだが「住民に心配させないように米軍に言え!」と怒りの電話があった。しかしそれはいかにも「デタラメな新聞記事」に影響された発言だったので、「私が詳しくご説明する」というと、わざわざ私の部屋に出向いて来られたことがあった。事故の経緯と米軍がとった適切な処置について私の説明を聞いた先生は、日米間の離間を図るような新聞記事に怒りを表すとともに、「やはり現場に来ないと真実はわからないものだ。大変勉強になった」と感謝されたものである。
 そんな過去の思い出から、今回の問題を想像するのだが、森歌手は50歳台、先生は古きよき時代の仁義を大切にする、義侠心に厚い世代である。
 現代社会の教育不在と古きよき時代感覚が失われつつある結果だろう、と勝手に思っているのだが、何はともあれ、久しぶりにブラウン管上で、元気なお姿を見て安心した次第。オッとブラウン管上ではなく「液晶画面で」というべきか! ]