軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

写真で見るシナ事変

 お昼のニュースで、急患空輸のため、徳之島に向かった沖縄の陸上自衛隊第101飛行隊のヘリが悪天候のため墜落した事を知った。離島の急患のみならず船舶遭難時も、夜間または悪天候の時には自衛隊に要請が来るので、陸自も空自の救難隊も勇躍救難に出動しているのが実情なのだが国民の多くはその実態を知らない。
 その昔、離島に発生した急患診療のため、医者と看護婦を同乗して夜間出動した連絡機が墜落し全員亡くなったことがあったが、殉職隊員の葬送式に、要請権者の県知事が出席することはついに無かった。今回は患者を収容していなかったようだから、被害は身内だけ。殉職した機長・建村3佐以下4名にとってせめてもの慰めだったろう。彼ら勇敢なる4人の“軍人達”に心から哀悼の意を表するとともにご遺族に心からお悔やみを申し上げたい。

 
 さて、昨日は大東亜戦争時代の朝日新聞記事をご紹介したが、対する毎日新聞の写真集から、当時の新聞記者・カメラマンはじめ軍人達の活動の実態の一部をご紹介しておこう。『不許可写真』(シリーズ20世紀の記憶・・毎日新聞秘蔵)という1998年12月に毎日新聞社が発行した写真集である。


 戦後、中国政府は、これらの写真を活用して、日本軍の“蛮行”を大々的に宣伝し、その中には「百人斬り」や「南京大虐殺」などの虚構が出てくるのだが、毎日新聞のカメラマン達が現場で撮った生々しい写真からは、そんな組織的犯罪臭が全く伺えないのが面白い。勿論戦争中なのだから、戦力や装備に関わる写真が[不許可]になるのは当然である。
 旧陸軍の「新聞掲載事項拒否判定要領」には、許可するものとして[軍隊ノ過去ノ行動中現在及将来ノ企図ヲ暴露スル虞ナキ局部的ノ記事及写真ニシテ次ニ示ス諸例ノ如キモノ但シ兵器材料ノ性能ヲ窺知シ得ザルモノニ限ル」とされている。しかし、この写真集を見ると、従軍カメラマンには結構自由に撮影させていたことが伺い知れる事で、興味深いのは死体は消すように指導されていたということである。
これは死者を供養するという日本人独特のものなのかもしれない。
 例えば、第二次上海事変が始まった翌日の1937年8月14日に「南京路」のフランス租界を「中国空軍機」が爆撃して多数の死傷者を出したときの写真である。この日中国空軍は、上海停泊中の「出雲」など日本海軍艦艇を爆撃したのだが、フランス租界・南京路を「誤爆」し、キャセイホテルやデパートなどが被害を受けた。死傷者は2000人以上だといわれているが、戦後これも“わが日本軍機の誤爆”だと言い伝えられている。その被害者?の写真が「抗日記念館」などに展示されているのだが、この現場を撮った日本人カメラマンの写真は軍から「公表不許可」にされた。しかし、外国人記者が撮影したものは世界中に発信されたのである。こんなところにも日本人の「工作活動」に対するセンス不足を物語るものがある様に思う。(下の写真は、上段がホテル前の惨状、下段は中国兵の死体が写っているため不許可になった写真)

 ちなみにその惨状を物語る「面白い資料」が手元にある。「シブミ」という早川書房発行の「小説」で、作者は「トレヴェニアン」という外人、英文学翻訳者の菊池光氏が翻訳したものである。その上巻の「上海――193?年」という節に、岸川孝将軍という人物が登場する1937年当時の上海の情景を詳細に描いている箇所がある。


「1937年7月7日に、『ノース・チャイナ・デイリイ・ニューズ』が、北京の近くの盧溝橋で日本軍と中国軍が銃撃を交わした、と報じた。バンドでは、上海クラブにいたイギリスの経営者達が、東洋人同士の無意味な闘争におけるこの出来事は、迅速に手を打たないと収集不能になる可能性がある、ということで意見が一致した。彼らは、自分達の商館を迷惑な戦争から守るために、北へ急行して上海に直接影響の無い地域で日本軍と交戦してもらいたいと蒋介石総統に伝えた。しかし、総統は、共同租界を危険に晒すことによって自分の側に有利な外国の介入が行われることを期待して、上海で日本軍を迎撃することにした。それがうまくいかないと判ると、彼は、共同租界の日本商館や民間人に対する組織的迫害を始め、ついに8月9日、車で郊外の日本の紡績工場の検査に向かっていた大山勇夫中尉と運転手の斉藤与蔵一等水兵が中国兵士に停止を命ぜられた。
 蜂の巣のように撃たれ性器を切り取られた二人の死体がモニュメント・ロードで見つかった。これに対応して日本の軍艦が黄浦江を上ってきた。蘇州川対岸の閘北の日本租界を守るために1千人の陸戦隊が上陸した。彼らの前面にはバリケイドを築き塹壕を掘った1万の中国精鋭部隊がいた・・・・・・。
 8月14日にアメリカ製ノースロップ機に乗った中国軍パイロット(注:アメリカ人義勇軍パイロットだったのかもしれない)達が上海を盲爆した。高性能爆弾の一弾がパレス・ホテルの屋根を貫いた。べつの一弾がカフェ・ホテルの表の路上で爆発した。729名が死に、861名が負傷した。31分後にべつの中国機が女性と子供の避難所になっていた大世界娯楽センターを爆撃した。1012名が死に、1007名が負傷した・・・」
 この小説の元になっているのは当時の<英字新聞資料>であろうと思われ、実に正確で貴重な記録である。毎日の写真集に『不許可』として載っている惨状はこの時のものであることは疑いない。(不許可写真集には、戦闘直後の現地を視察する『外人記者団』の姿がある。“南京大虐殺”が事実ならば、外人記者団に隠しおおせた筈はない)


 こうして過去の記録、それも写真集をめくっていくと、文章ではつかみきれない当時の実情がじかに伝わってくるのだが、自分に都合の良い<キャプション>を付けることが得意なシナ人たちにとっては、これも対日宣伝に活用したのだろう。
 朝日も毎日も、当時黙々と戦地で戦った多くの将兵たちの名誉を守るために、当時の写真始め記録集をどんどん放出してもらいたいものである。