軍事評論家=佐藤守のブログ日記

軍事を語らずして日本を語る勿れ

天晴れ!照ノ富士関、それに比べて「神事」である事を忘れた相撲部屋の醜態…

14場所ぶりに幕内復帰した前大関照ノ富士(28=伊勢ケ浜)が、30場所ぶり2度目の優勝を果たした。

千秋楽は、負ければ優勝決定ともえ戦にもつれ込む本割の関脇御嶽海との一番を制して、13勝目を挙げ15年夏場所以来の優勝が決まった。殊勲賞、技能賞の三賞2つも獲得した。

両膝の負傷や内臓疾患に苦しんだ照ノ富士関が、4カ月ぶりに再開した本場所で見せた意地であった。

大関経験者が関脇以下で優勝するのは昭和以降では2人目。優勝と優勝の間で十両以下に陥落した力士はおらず、平幕優勝は32人目。幕尻優勝は貴闘力と、今年初場所の徳勝龍に続いて史上3人目であり、返り入幕の優勝は徳勝龍以来という、史上初の快挙」となった。

 

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私は相撲は素人だが、両ひざ故障で脱落した照ノ富士が序二段で踏ん張っている姿をたまたまTVで見て驚いた記憶がある。最下位で頑張っているのか!と。

その後地力を発揮して十両に戻り、優勝して幕内に戻ったが、優勝もあり得る、とは思ったが、まさかいきなり優勝するとは考えなかった。

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 天晴れ、照ノ富士

寡黙(と見える)彼が黙々と怪我と「元大関」という重圧に耐えた原因は、勿論師匠の指導力と本人の努力の賜物ものだが、根底にはモンゴル魂があったに違いない。

今(特に戦後の)日本人の男が失っている「大和魂」つまり「気力」と我慢である。それに若さという”応援”もあったろう。

私は「相撲」については「スポーツ」や「格闘技」ではなく日本の文化、「神事」だととらえて見ているのだが、貴乃花角界を去って以降、誰もそれを言うものがなく寂しく思ってきた。

土俵を見れば明らかに「スポーツではない」ことが分かるだろうに。

一時は朝青竜のような「モンゴル人に蹂躙」されると心配したこともあったが、今回の照ノ富士の偉業にその偏見を修正したい。

むしろ日本人力士の方が、四股名も持たず(親方が付けもせず)キャバクラ通いで引退届を出した阿炎や、式秀部屋の様に、規律が乱れて力士9人が集団脱走するという「軟弱な」相撲部屋の力士が出たように、今では少し生活態度を注意されると、プライバシーの侵害などと、どこかで聞きかじった言葉を吐いて自己弁護する若手力士が増えていることを危惧してきた。しかもアイドルの名前をとったふざけた「桃智桜」や「育盛り」などという、土俵の神を侮辱した四股名を許すなど相撲協会自体も緩んでいる。

91年5月12日に18歳9カ月の史上最年少の貴花田横綱千代の富士を寄り切った。

36歳を迎える優勝31回の千代の富士は、ケガによる休場続きで118日ぶりの土俵だったが、その数日後、彼は「体力の限界」と述べて引退した。世代交代したのであった。

今の土俵には「花となる」力士が見当たらない。せいぜい小兵の炎鵬が、一人気を吐いているが、あとは「技」よりも、突進力が目立ち、炎鵬のような「作戦」を練り技で小よく大を倒す力士が少なくなった。安定しているのは朝の山くらいか?

もっともこれは素人評に過ぎないが、その底には「相撲(土俵)は神事」であることを意識していない親方と力士の努力不足のような気がしてならない。つまり神を冒涜している事に気が付かないのである。

さて、歓声(嬌声?)や座布団投げが禁止された、厳粛な”コロナ場所”で、相撲協会もファンも相撲の在り方そのものを見直したのじゃないか?

不撓不屈の精神を見せてくれた照ノ富士の快挙が、日本人のマンネリ化した大相撲鑑賞に対する考え方を改めてくれたような気がする。

 

届いた書籍のご紹介

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WⅰLL9月号

表紙の表題が小さくなった!特集は「習近平の暴走」だが、厳しい非難が集中している。どれもこれも正しいが、だからと言って変わるものでもあるまい。いくら罵られても、本人はカエルの面になんとやらだろう。実力なき国家のせい一杯の”口撃”に過ぎない。

「中国人は罪を逃れるためなら何でもする」は面白いが、彼らは「罪」という語を知っているのだろうか?